今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第１１節

　暖かい春がやって来た。真っ白な大雪に覆われていた光景は幻のように過ぎ去った。今、岸家の裏の森には新緑が芽吹きはじめた。

　安寿の膝の上に窓から注いでくる柔らかな黄金色の陽ざしが当たっている。その膝の上に置かれた左手の薬指につけられた結婚指輪が虹色に輝いている。

　岸家の自室のベッドに腰掛けた安寿は、咲に薄化粧をしてもらっていた。この日のために新調した桜柄の色留袖をまとった咲は、にっこりと心から幸せそうに微笑んだ。そして、咲は安寿に繊細で美しい刺繍がほどこされたベールを丁重に被せて声をかけた。

　「お支度ができましたよ、花嫁さま」

　咲は白いのレースの手袋をした安寿の手を取って部屋のドアを開けた。そこには、タキシードを着た航志朗が立っていた。

　思わず目を細めて航志朗が言った。

　「安寿、とてもきれいだよ。本当に俺は幸せ者だな」

　頬を赤らめた安寿は航志朗をまっすぐに見つめて言った。

　「航志朗さんだって、とても素敵よ」

　安寿は純白の美しいウエディングドレスを身にまとっている。肩から背中にかけて繊細なフリルがあしらわれ、それはまるで天使の羽のようだ。このドレスはパリ在住の星野蒼に頼んで仕立ててもらった。ベールは亡き恵真が自身の結婚式で使用したものだ。

　独占するように安寿の腰に手を回して、航志朗がかなり不愉快そうに言った。

　「どうして、このウエディングドレスはこんなにも君にサイズがぴったりなんだ？　彼に君の身体のサイズを伝えていないのに」

　何も答えられずに安寿はただ苦笑を返した。

　安寿と航志朗は腕を組んで岸家の階段を一段一段ゆっくりと下りて行った。微笑みを浮かべて咲がふたりの後に続いた。階下では涙ぐんだ伊藤が待ち構えていた。

　「安寿さま、航志朗坊っちゃん、誠にご結婚おめでとうございます」

　花嫁の父親のようなモーニングを着た伊藤は、すでに湿ったハンカチで何回も目を拭いた。

　黒川家の襖絵を描き終えて岸家に戻って来た安寿と航志朗に、伊藤は今まで伝えられなかったことを涙ながらに打ち明けた。伊藤だけが知っている、──白戸愛と岸宗嗣、そして、古閑康生の関係を。

　白戸愛は進学した芸術大学で古閑康生と出会った。愛がその大学で准教授になったばかりの古閑の講義を受講したのだ。当初、愛は古閑にとって、あくまでも教え子の一人であった。

　一年後、古閑と同じくその芸術大学出身で二年後輩の岸宗嗣が講師に就任した。すでに岸は芸術大学在学中からその画才を画壇に認められていた。ひそかに古閑は自分にはない岸の絵の才能と、その高貴な出自や優雅な容姿に嫉妬していた。そして、岸が高校時代の古閑の恋人であった黒川華鶴と結婚して息子までもうけていると人づてに聞いて、さらに激しく憎しみを募らせた。華鶴は高校卒業後、突然、古閑の前から姿を消していた。

　古閑は偶然再会した華鶴から岸のモデルを探していると聞いた。すぐに古閑は愛の姿を思い浮かべた。学内で愛は目立って美しく優秀だった。そして、幼い子どものように純粋だった。まさしくそのお役目に適任だと古閑はひそかに悪計を企てた。岸と道ならぬ恋に落ちてくれれば、岸が築き上げてきた幸せな家庭を間接的に壊すことができる。

　愛は始め岸のモデルの話を頑なに断ったが、古閑は執拗に勧めた。結局、大学で古閑に何かと世話になっていた愛は断りきれなかった。そして、愛は岸のモデルになった。

　時を待たずして、古閑の思惑通りに愛は岸に恋をした。その許されぬ恋の悩みを、愛は信頼していた古閑にたびたびもらした。その時、図らずも古閑は恋をしてますます美しくなった愛が惜しくなり、心の底から愛を欲しいと思うようになってしまった。古閑は自らの孤独な生い立ちをかなり盛って語り、心優しい愛の同情を買った。そして、無理やり愛を自分の思うがままにした。