今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗はホットコーヒーを啜りながら、昨日の出来事を思い出していた。

 海外へ旅立つ最後の準備を安寿と忙しくしていた時に、突然の来客があった。それは、黒川皓貴だった。航志朗は一人でマンションのエントランスに行って黒川に対面した。

 黒川は簡潔にひとことだけ言った。

 「あの森のことで話がある」

 唐突な話に航志朗は戸惑ったが、黒川をマンションに迎え入れた。黒川がマンションのリビングルームに足を踏み入れると、二つのシルバーのスーツケースが横倒しになって開いたままで置かれているのが目に入った。

 片方のスーツケースの半分には使い込まれた画材が詰められていた。日本画の画材がコンパクトに収められた文箱も入っている。今春、清華美術大学を卒業した九条容からの贈り物だ。容は祖母の千里から九彩堂を継いだ。

 安寿は黒川にお辞儀をするとキッチンに行ってお茶を用意しようとしたが、黒川はそれを制止した。

 「航志朗くん、それから、安寿。君たちに話がある」

 安寿と航志朗は、ソファに座った黒川の前に並んで腰を下ろした。

 「あの森についてだ」

 安寿と航志朗は顔を見合わせた。

 「僕は、あの森を岸家に返還することにした」

 突然の黒川の申し出に、安寿と航志朗は言葉を失った。

 「でも、航志朗くん、君にじゃない。もちろん、宗嗣叔父さまにでもない。……君たちの子どもにだ」

 「俺たちの子どもに……」

 かすれた声で航志朗が言った。

 「そうだ。君たちの子どもは、僕の子どもでもあるような気がしたんだ。奇遇なことに、僕は君たち二人ともと血が繋がっているからね」

 安寿と航志朗は微妙な表情を浮かべてまた顔を見合わせた。

 「そう、君たちに伝えたいのはそれだけじゃない。先日あの森に関して、奇妙な事実を知ったんだ」

 「『奇妙な事実』ですか?」

 不審に思って航志朗が顔をしかめた。

 「そう。遺言書を作成しようと思って、あの森の不動産登記簿を調べたんだ」

 「ゆ、遺言書……」

 表情を硬くした安寿が肩を微かに震わせた。

 「それが、見つからなかった」

 驚愕した航志朗が思わず大声をあげた。

 「なんだって!」

 「あの森には登記も地番もない。ありえないことだ。おそらく、昔、誰かが岸家の敷地内に隠したんだろう。……何らかの理由があって」

 航志朗が叫ぶように言った。

 「でも、祖父が亡くなった時に、あの森は黒川家に売却されたんだ!」

 「確かに。黒川家の前当主は、多額の金を出して架空の土地を手に入れた。年の離れた可愛い妹の言いなりになってね」

 「それって……」

 「そう。彼女は知っていたんだろう。この不可解な事実を」

 三人はしばらく沈黙した。まるで静寂な森のなかにいるように。

 「とにかく、あの森は君たちの子どものものだ。航志朗くん、せいぜいがんばるんだな。……余計なお世話だが」

 黒川は立ち上がってリビングルームのドアを開けた。そして、背を向けたままでうつむいて言った。

 「安寿、最後に君に謝りたい。……すまなかった」

 静かにドアが閉まった。安寿はあわててその後を追った。

 「皓貴さん!」

 安寿は玄関で草履を履いていた黒川の背中に思わず抱きついた。

 「……安寿?」

 黒川の背中に顔を押しつけて安寿が言った。

 「お元気で。……皓貴お兄さま」

 くすっと肩を揺らして黒川が言った。

 「おいおい安寿、大げさだ。今生の別れみたいなことを言うな」

 黒川は向き直って安寿を抱きしめた。後ろから見ていた航志朗が目をむいた。

 「安寿、航志朗くんが嫌になったら、いつでも僕のところにおいで」

 「……はい」

 思わず航志朗は仰天した。

 (安寿、今、「はい」って言った……)

 コーヒーを飲み干した紙コップを航志朗は思わず握りしめた。思いきり紙コップがひしゃげた。隣の席に座った安寿は相変わらず小窓の外の光景に夢中になっている。たまらずに航志朗は後ろから安寿をきつく抱きしめた。

 「航志朗さん?」

 「安寿、俺は絶対に君を離さない!」

 「……うん」

 安寿は身体に回された航志朗の腕をしっかりと握った。ふたりの左手が重なる。小窓から差し込んできたまばゆいばかりの太陽の光が、安寿と航志朗の結婚指輪をきらきらと虹色に輝かせた。

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