今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、岸はアトリエにいた。カウチソファに座って岸は裏の森を眺めていた。後ろからトレイを持った咲がやって来て、岸のデスクの上の薬袋の横に水が入ったグラスを置いた。咲は開いた窓から晴れ渡った空を見て言った。

 「本当に、今日は良いお天気ですね、宗嗣さま。安寿さまと航志朗坊っちゃんは、もう空の上でしょうね」

 目を細めた岸は咲にうなずいた。

 黙って空を見上げた岸は、その琥珀色の瞳の視線を森に戻した。

 すると、岸は気づいた。いつのまにかウッドデッキの上に白い猫が座っている。猫は岸に向かって話しかけるように鳴いた。

 顔をほころばせて咲が言った。

 「あらまあ、可愛らしい猫ちゃんね。どこから来たのかしら?」

 咲の目の前で、岸がスケッチブックを開いた。そして、鉛筆を握って、岸は白い猫をデッサンし始めた。微笑を浮かべた咲は、そっとアトリエを出て行った。

 岸家の二階の東側にある子どもの頃の航志朗の部屋だった安寿の自室は、今は安寿と航志朗夫婦の部屋になった。部屋の中には白い油絵具がついたイーゼルが立て掛けてある。

 そのイーゼルにはスケッチブックが置かれている。その最初のページには、古い肘掛け椅子に座った安寿の姿が鉛筆で描かれている。絵のなかの安寿は微笑んでこちらを見つめている。次のページ以降に描かれた安寿の姿は、誰にも見せられない安寿と航志朗だけの秘密だ。
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