今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 次の日の午前七時前に、航志朗は安寿の住む団地に到着した。安寿を自宅の玄関まで迎えに行く時間にはまだ早い。航志朗は車を停めてから団地の広場にあるベンチに座って葉桜を見上げた。心地よい風が吹いて来て、航志朗が羽織っているネイビーブルーのコットンシャツの裾を揺らした。航志朗は目を閉じてはやる気持ちを落ち着かせた。

 しばらくしてから目を開けると、航志朗は目の前に安寿が立っていることに気づいた。一瞬、大きく目を見開いてから、航志朗はくすぐったそうに笑った。その航志朗の表情を見た安寿はいたずらっぽく微笑んだ。

 朝のまっさらな光がふたりを照らしている。安寿は航志朗の琥珀色の瞳が朝露に濡れたように輝くさまを見つめた。航志朗は安寿の姿形の輪郭が柔らかく溶けて白く輝くさまを見つめた。葉桜が風に吹かれて、ふたりに何かをささやくようにさらさらと音を立てている。 

 「岸さん、おはようございます。驚きましたか?」

 安寿は航志朗を見下ろして笑顔で言った。

 「ああ、驚いたよ。でも、どうしてここにいるってわかったんだ?」

 「岸さんが車から降りて広場に向かったのが、共用廊下から見えたんです」

 安寿はいつものグレーの高校の制服を着て、黒い厚手のナイロン製のマウンテンリュックサックを背負っている。包帯が巻かれた左足は白いスニーカーの踵を踏んでいた。航志朗はまぶしそうに安寿を見上げてから立ち上がり、リュックサックを安寿の両肩からそっと外して持った。それは、ずっしりと重かった。

 「安寿、足の具合はどうだ?」

 「もう大丈夫です。昨日、ゆっくり休みましたから」

 だが、安寿はまだ足を引きずっている。膝下丈のスカートからは見えないが、膝の傷だってまだ相当に痛むはずだ。航志朗は安寿に歩調を合わせて、ふたりはゆっくりと車に向かった。

 「安寿、今朝はきちんと朝食を食べてきたんだろうな?」

 航志朗がにやにや笑いながら尋ねた。

 すぐに航志朗にからかわれていることがわかって、安寿は少し頬をふくらまして仏頂面になって答えた。

 「もちろんです!」

 そんな安寿が可愛くて、朝の始まりから航志朗は胸が高鳴ってしまった。つい航志朗は胸の内で思ってしまった。

 (このままどこかに連れ去りたい。高校なんかじゃなくて)

 だが、航志朗はすぐに我に返ると、無理やり理性を発動させて安寿の保護者に戻った。

 「ああ、そうだ。学校の終業時間は何時だ?」

 「あの、岸さん、迎えに来られなくても大丈夫ですよ。帰りは電車空いているので」

 いちおう安寿はやんわりと断ってみた。

 「だめだ。迎えに行く。何時だ?」

 安寿はため息をついた。やはり本気で航志朗は迎えに来る気だ。安寿は早々にあきらめて答えた。

 「三時三十分です。その後にショートホームルームが十分ほどあります」

 「部活は?」

 「部活は入っていません」

 安寿は「余計なお金がかかるから」と言いそうになったが、やめておいた。航志朗は安寿が部活に入っていないことを知って、ひと安心した。

 (少なくとも、今まで部活の先輩から言い寄られたことはなかったってことだな)

 「わかった。じゃあ、その時間に校門まで迎えに行く」

 ぎょっとした安寿はあわてて大声を出して言った。

 「お願いですから、校門はやめてください!」

 航志朗はまったく理解できずに尋ねた。

 「どうしてだ? リュックサックが重いだろ」

 安寿は航志朗を上目遣いでじっとにらんだ。「どうしてって、目立っちゃうじゃないの! 友だちやクラスのみんなにも見られちゃうし!」と文句を言いたかったが、幼稚な主張に思えて、自分よりずっと大人の航志朗には言えなかった。

 「わかった。駐車した車の中で君を待ってるよ」

 腑に落ちない様子で航志朗はそう言ったが、安寿の上目遣いが可愛らしくてまた胸が弾んでしまった。隣にいる安寿の横顔を盗み見て航志朗は思った。

 (彼女は本当に俺の妻なんだよな。信じられないな。……可愛すぎて)

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