今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後六時すぎに広大なバンケットホールに行くとすでにパーティーが始まっていて、大勢の招待客たちが食事をしながらにぎやかに談笑していた。目の前を豪華な中華料理が次々に運ばれて行く。食欲を誘う肉汁の香りがホール内を漂う。午前中に軽い機内食を食べたきりの航志朗はまたたく間に腹が鳴った。
 
 とりあえず航志朗はアンの家族とヴァイオレットの家族のテーブルに行き、それぞれに祝賀のあいさつをした。両家の年頃の従姉妹たちが熱い視線を送ってきたが、航志朗は慣れた様子でそれらをかわした。それから、アンの友人に案内してもらい席に着くと、航志朗がやって来たことに気づいたアンとヴァイオレットが大きく手を振ってきた。アンはまた頬をふくらませて航志朗をにらんだが、隣に座っているヴァイオレットに二本指で頬をつぶされた。
 
 アンの友人たちが、次から次へと中華料理を取り分けてくれた。皆、もうすでに酒がまわり上機嫌だ。白酒(バイチュウ)が小さなグラスに注がれ、皆で何回も乾杯して飲み干す。航志朗はアルコールに弱いわけではないが、付き合いの乾杯以外は飲まないことにしている。航志朗は炭酸水を自らホールスタッフに頼んだ。

 航志朗はパーティー会場のかたすみで静かに座って、この時間をやり過ごすつもりだった。だが、年頃の娘たちとその母親たちが取っかえ引っかえ話しかけてきて、ゆっくり食事どころではない。

 航志朗はアンの魂胆にやっと気づいた。

 (やれやれ、アンのやつ、そういうことか……)

 アンは航志朗にこの国で自分のそばに留まってほしいのだ。イギリスの大学を卒業する前に母国で起業することが決まっていたアンは、航志朗に協力してほしいとなかば無理やり、彼のカンパニーのCOOの地位を航志朗に押しつけた。だがその時、航志朗はアンに言っていた。

 「オーケー、俺の命の恩人である親友の君に全力で協力するよ。でも、君の事業が軌道に乗るまでだ。俺は俺でやらなければならないことがあるからな」

 そこでアンは切実に考えた。航志朗がここで最愛の(ひと)を見つけ結婚までこぎつければ、自分から離れていかないだろうと。だから、この機会に航志朗をめかしこませたのだ。

 (俺の見合いの席を設けたっていうわけか。でも、アン、よく考えてみろよ。俺はおまえの身内に簡単に手を出せるわけがないだろう)

 また化粧の濃い着飾った娘に声をかけられた。航志朗は愛想笑いをして丁重にあしらった。航志朗はため息をついた。俺は何をやっているんだと。

 午後十時半が過ぎた。そろそろお開きの時間だ。夜がふけて、招待客たちはそれぞれに酔いと満腹感で疲れ果ててきた様子だ。

 そこへ、車椅子に乗った黒光りするドレス姿の老婆が、車椅子を押す忠実な番犬のような男とともに、アンとヴァイオレットの席に近づいた。急にふたりは緊張した面持ちになった。ホールはいつの間にか静まり返り、招待客たちは三人の動向に注目した。アンの友人が、いぶかる航志朗に耳打ちした。

 「ヴァイオレットの曾祖母です。彼女は、(ウォン)ファミリーの最長老です。御歳、九十八歳と聞いています。彼女は、……見えないものが見える方(・・・・・・・・・・・)です」

 「見えないものが見える方?」

 航志朗は眉間にしわを寄せた。アンの友人は意味ありげに微笑んだ。

 老婆はヴァイオレットの瞳の奥をじっと見つめた。ヴァイオレットは、まっすぐに曾祖母の瞳を見返した。その隣で、酒に酔って顔を赤くしたアンは明らかに取り乱した様子でヴァイオレットの手を握りしめた。老婆は微かに目を細め、そして、中国語(マンダリン)で静かに語り始めた。

 「ヴァイオレット。私の可愛いひ孫娘よ、よく聞きなさい。その隣の花婿殿もだ。おまえたちの後ろに、二人の少女の姿が見える。いずれ、おまえたちのもとにやって来るだろう」

 「私は二人の女の子のママになるということですね、大おばあさま?」

 ヴァイオレットが落ち着きはらって言った。

 「そうだ。おまえたちは安心して家庭を築くがよい。十年前、おまえがその男に受け止められたことは、あらかじめ定められた恩寵だった。李安よ、私の愛するヴァイオレットを頼みましたよ」

 「はい、大おばあさま!」

 目に涙を浮かべたアンが床に額づき、こつんと音を立てて礼をした。中国式の「叩頭(こうとう)の礼」だ。ヴァイオレットはしっかりとアンの背中を支えた。しばらくの間、バンケットホールは盛大な拍手の音が鳴り響いた。

 その光景を見て、航志朗はアンから聞いたふたりの出会いのエピソードを思い出していた。
 
 十年前、アンとヴァイオレットは同じ学校に通っていた。資産家の優秀な子弟が集まる有名校だった。アンは十歳の時に実業家であった父を亡くしたが、年の離れた三人の姉たちとその伴侶である義兄たちが、末っ子で長男でもある彼のために尽力して教育を受けさせた。毎日アンは家族の期待を背負って学業に専念していた。

 ある日、アンはいつものように放課後も学校の一階の図書館で自習をしていた。閉館時間になって帰宅しようと、アンはエントランスに向かって夕陽が差し込んだ廊下を歩いた。階段の前にさしかかった時、アンは、突然、女生徒の短い悲鳴を聞いた。見上げると、女生徒が制服のスカートをひるがえして階段の上から落ちて来た。アンは、とっさに彼女を全身で受け止めた。その時、アンは右の前腕骨を骨折した。一か月入院して、完治まで半年かかった。落ちて来た女生徒の方は無傷だった。この女生徒こそ、(のち)のアンの妻、ヴァイオレット・ウォンである。
 
 その話をした時、アンは驚く航志朗にあっけらかんと言い放った。

 「大けがだったけどさ、ぜんぜん痛くなかったんだよね。あの瞬間、僕たちは恋に落ちたからさ。恋の麻酔薬が効いたって感じかな。……ふふ」

 頬を赤らめてアンは幸せそうに笑った。

 (ん? いつのまにか、のろけ話にすり替わった)

 「その後、ヴィーは大泣きで毎日病院に見舞いに来てさ、学校に戻った後もずっと一緒にいた。利き腕ギブスに包帯ぐるぐる巻きでいろいろ不自由だったから、こまごまと世話してくれたよ。そうそう、男子トイレにまで一緒に入ろうとしてたっけな……」

 その一年後、ヴァイオレットの父であるウォンファミリーの当主に見込まれて、アンは当主から留学資金の全面的な援助を受けてイギリスに渡った。

 その時、航志朗は胸の内で思った。

(「留学資金の援助」だって? それって建前だろ。彼女の父親に体裁よく引き離されたんじゃないか)

 ウエディングバンケットの最後で最大のイベントを見守った招待客たちが帰り支度を始めた。酔いつぶれて連れ合いに支えられている男たちや、やかましい声でいまだにおしゃべりが止まらない女たち、またホールの外から大泣きする赤ん坊やぐずる幼児をともなったベビーシッターたちが大勢入って来て雇い主を探していたり、後片づけを急ぐホールスタッフたちでバンケットホール内は騒然となった。

 そんな状況下で航志朗が会場から出るタイミングを見はからっていると、先程の車椅子に乗った老婆が航志朗の目の前を通った。

 ふと老婆が横を向き、航志朗と目が合った。老婆のどろんとにごった瞳に見つめられて、一瞬、航志朗の全身が凍りついた。航志朗は老婆から目が離せない。通り過ぎた老婆は車椅子を押す男に指示して、航志朗の前に戻って来た。同席しているアンの友人たちが驚いたように航志朗を見た。航志朗は老婆の意図がまったく理解できないが、いちおう老婆に会釈した。

 老婆はぎろっと航志朗をにらみつけて、英語で航志朗に冷ややかに告げた。

 「……そこの男。やがて、おまえは白い翼を持った女を愛することになる。だが、心してよく聞け。これは忠告ではなく警告だ。おまえがその女の白い翼の羽を一枚でも傷つけたら、おまえと女は灰色の池に落ちて沈む」

 その思いがけない言葉に航志朗は身体じゅうが硬直し、目の前が真っ暗になった。何も言い返すことができない。

 (警告(ウォーニング)? ……どういうことだ)

 老婆は去って行った。その後、年頃の娘たちもその母親たちも、いっさい航志朗に近づいて来なかった。

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