今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 教室を後にしたふたりは昇降口に向かった。安寿は先を歩く航志朗の大きな背中を見てため息をついた。

 (航志朗さん、なんだか怒っているみたい。久しぶりに会ったのに)

 航志朗は肩を落として落胆していた。

 (「就職希望」って、安寿は高校卒業後すぐに就職して、俺と別れるつもりなんだな)

 そして、航志朗は思いついてしまった。

 (もしかして、安寿には好きな男がいるのか? さっき親しそうに手を振っていたあの男子生徒とか)

 航志朗の胸はひどく痛んだ。ふたりは昇降口で靴に履き替えた。外はまだ霧雨が降っている。安寿はネイビーの傘をさした。航志朗は何も言わずにその傘を安寿の手から取り上げて持った。ふたりは一つの傘の下で歩き出した。

 沈黙を破って、航志朗が尋ねた。

 「安寿、足のけがは大丈夫なのか?」

 「はい。もうすっかり治りました。航志朗さん、どうぞ安心してくださいね」

 安寿は航志朗を見上げて微笑んだ。

 「そうか。それはよかった」

 航志朗は微笑む安寿の顔を間近に見て、たまらない気持ちになった。航志朗はすぐに傘を持つ手を持ち換えて、安寿の肩に腕を回して引き寄せた。安寿は一瞬驚いたが、航志朗のなすがままに寄りかかった。雨の匂いに混じって航志朗の匂いがした。安寿は思わず深くため息をついた。航志朗は安寿のその吐息を感じて気持ちをよりいっそう高ぶらせ、もっと強く力を込めて安寿の肩を抱いた。

 航志朗の車は校内の来客用駐車場に停めてあった。ふたりが車に乗り込むと、航志朗は我慢できずに安寿に手を伸ばして抱きしめようとした。安寿はあわてて航志朗に言った。

 「こっ、航志朗さん、学校の中ですよ!」

 航志朗が安寿の肩をつかみながら笑って言った。

 「じゃあ、学校の外ならいいんだ?」

 安寿は真っ赤になって目線をそらした。

 「とにかく、ここから出ようか」と言って、安寿を離して航志朗はエンジンをかけた。

 雨足が強くなってきた。フロントガラスのワイパーが高速で作動している。ふたりを乗せた車は岸家へ向かう方向に進んでいる。とりあえず安寿は胸をなでおろした。だが、途中でいきなり航志朗はハンドルを切り進行方向を変えた。安寿はぎょっとして大声で航志朗に尋ねた。

 「航志朗さん、どこに行くんですか!」

 航志朗はいたずらっぽく笑って答えた。

 「決めてない」

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