哀愁の彼方に
に節を好いていた。節は、それほど美人でもなかったが、彼女の優しさと何より、誰に対
しても陰日なたなく心配りができるところに惚れていた。それより何より節は、女として
男を惑わせる女体型を持っていた。
 その日は、蒸し暑かった一日も終わろうとしていた晩夏の夜だった。市松は、いつもの
ように行商から帰ってくる途中だった。売り上げは、ほとんどなく彼の足取りは、重かっ
た。彼は、空腹と主人から売り上げのないことを叱責される憂鬱さと、肉体的な疲れに耐
えかねていた。彼は、店へ帰りたくない気持ちから米穀商朽木屋の倉庫の石段に腰を下ろ
した。この夜は、夏祭の宵宮であった。使用人たちは、主人から小遣いをもらって各々、
外へ出かけて行くことを許される夜だった。この夜は、使用人のみならず、店の者のほと
んどは、めいめいの思惑で出かけて行く夜だった。夜はまだ、始まったばかりで夜空の星
の輝きにも初期のチカ、チカとして若々しいまたまきを感じられた。市松は、星の輝きを
眺めながら、母親や祖父母と過ごした思いにふけっていた。その前をくす、くす笑いなが
ら通り過ぎていく男や女の声が聞こえて来ては消えて行った。消えて行く方向は、
お宮の境内の方向である。その方向へ消えて行く声を耳をすませて追いかけていると、境
内の方向には、灯りがこうこうとしていた。市松は、幼い頃に母や祖父母の手に引かれて
氏神様の宵宮で買ってもらったイカの姿焼きの味を思い出していた。その味とその時に一
緒に買ってもらった玩具のパチンコとかんしゃく球のことを忘れられないでいた。そのこ
とを忘れられなかった彼は、小学4年生頃に同じ氏神様の同じ宵宮で売られていた「針の
目通し」を小遣いで母や祖母のために買って感謝されたことを覚えていた。その形も作ら
れていた材質も思えていた。このような思い出を脳裏に交錯させながら、星の輝きと境内
での灯りを見つめていた。
「やめて!!」
悲痛な女の叫び声であった。声の響きから、その声の源は、すぐ近くから聞こえてきた。
激しい抵抗の響きであった。その場所は、倉庫の灯りが届かなくなった暗闇のスポットで
あった。全く人気のないお宮への通りの裏手にあるクヌギの木のそばであった。
「やめろ!!」
市松は、暗闇の中で男が女の身体の上に馬乗りなっているところを目にした。
「止めろ!!」
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