哀愁の彼方に
彼は、馬乗りになっている男を思い切り蹴飛ばした。男は、一目散に逃げて行った。女は、
その場で引き倒され、着ている衣類は、激しく乱れて乳房や太ももの肌が見えていた。彼
は、目をそらした。暗闇の中で、
「もう大丈夫や!はよう、服をなおしな」
女は、乱れた服を恥ずかしそうに調えた。
「大変な目にあったな。ひどいことをする男もいるもんや」
市松は、そうつぶやきながら女の方を振り返ると、信じられない顔であった。
「まさか!」
市松は、自分の目を疑った。
「節どん!!」
市松は、信じられなかった。
「節どん!!誰や!!こんなひどいことする奴!」
節は、無言で呆然としていた。市松は、無性に腹立たしく思って、逃げて行った男の名前
を尋ねた。節は、応えなかった。
「誰や!!今の男!!絶対に許せへん!!」
節は、また無言でうなだれていた。市松は、さらにまた激しく節に名前を問い詰めた。節
は、しぶしぶ主人の重一であると応えた。
「まさか!!」
市松は、再び自分の耳まで疑った。
「なんでや!!なんでや!!」彼は、悲しさで身体が凍りすくようになった。しかし、す
ぐにその身体からは、怒りがモクモクと身体全体に噴火してきた。彼の顔面は、みるみる
うちに青筋が逆立ち、狂ったような殺気で手は震え、目は鋭くつりあがり、声はこわばっ
ていた。それは市松が、奉公に来て初めての怒りであった。それに倍加すること、これま
で虐げられてきた怨念が一気に爆発した怒りであった。彼は、急いで家に帰ると主人の重
一に殴りかかった。しかし、夏祭りの宵宮に出かけなかった使用人数人に市松は、取り押
さえられた。彼は、その使用人から殴る蹴るなどの暴行を受けた。そうしてその夜にうち
に駐在所の巡査を通じて警察に引き渡されていった。市松は、取調べでありのままのこと
を述べ、主人の重一に殴りかかった動機は、重一が節をレイプしょうとしたそのことであ
ると言った。そのために主人の重一も警察の事情徴収を受け、節も同様な調べを受けた。
重一は、レイプを否定し、互いの合意のもとでの行為だったと言った。節は、宵宮へ一緒
に行くことには合意したが、肉体関係を迫られることには合意していないと言った。重一
を罰するには、節の告訴が必要であった。女房の純子は、節に告訴を出すことを思いとど
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