呉服屋王子と練り切り姫

「自炊」という言葉はご存じですか?

 突然のノックの音に驚くと、甚八さんの声が聞こえた。

「なあ、そろそろ飯でも食い行かないか?」
「ああ……はい」

 持ってきた衣服類を開いてクローゼットにしまっていた手を止め、部屋を出る。そして、“道”を辿ってダイニングへと向かう。

「あの……もしかして、またあそこに食べに行くんですか?」

 ノートパソコンを閉じかけた甚八さんに、私は尋ねた。

「ああ。あそこは美味いし何頼んでも間違いないからなぁ。ついでに酒もうまい」
「そうですか……」
「あの店、お前は好みじゃないか? ……まぁ、一流シェフの食いもんだから、ど庶民のお前の口には……」
「そうじゃなくて! こんなに毎日外でご飯を食べて、自炊しないんですか!?」

 私の発言にキョトン、とした目をこちらに向ける甚八さん。

「自炊、とは?」
「自炊っていうのはですねぇ、自分で食材を買ってきて作って食べることです!」
「いや、そのくらい知っている」
「じゃあ何でそんなこと聞くんですか!」
「だって、自炊ってお金のない人間がするものだろう……?」
「はぁ? だいたい甚八さんだって、一人暮らしを始めるまではご家庭でお母さんの作る料理を食べて育ったんじゃ……」
「そういう、ものなのか?」

 その言葉がいつもの嫌味だと思って彼をきっと睨むと、甚八さんは思いかけず切なそうに瞳を揺らしていた。私ははっとした。家族の話は、もしかしたら触れてはいけない事だったのかもしれない。

「そんな顔をするな。俺は母親の顔を知らないだけだ」
「え?」
「父は仕事で忙しかったからな。俺が世話になったのは家政婦と家庭教師だけだ」
「じゃあ、甚八さんは……」
「料理は、金を払って食うもんだろ。さ、行くぞ」

 そう言って甚八さんは先に行ってしまう。私は急いで彼の後を追った。
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