呉服屋王子と練り切り姫
 オフィスビルを出たところまではよかった。怒りに任せて、ずかずかと大股で歩いてこれた。しかし、外の冷たい空気に触れたとたんに、私の心は沈んでいった。

 陽臣さんはすべての価値をお金で捉える人だ。だから、彼にいくら欲しいか聞かれたことは仕方のないことだと分かっている。彼は、世界をそれでしか見ていない。
 それよりも、陽臣さんがさも自分とのことのように甚八さんと私のことを告げたことがショックだった。甚八さんは、最初からそのつもりで私と同居を始めたのかもしれない。「兄さん」と慕う陽臣さんのために、何でもない私の手料理を食べ、何でもない私に掃除を押し付けたのかもしれない。私は、甚八さんに利用されていただけだったのか。
 ゲーン夫妻と奈良京都に行った時、甚八さんは「報酬」と言って多額の金を寄越してきた。
 そうか、甚八さんも、愛だの情だの、信じてないのか。

「料理は、金を払って食うもんだ」

 彼は前に私にそう言った。そうか、私はお金で買われた、ただの利用しがいのある家政婦だったんだ。
 そもそも、私と甚八さんとでは、住んでいる世界が違う。彼は呉服屋の金持ちお坊っちゃまで、私は自分の働く店の練り切り餡も買えないど庶民だ。
 「恋は盲目」というけれど、本当にその通りだ。私は「私の好きな甚八さん」を彼に投影していただけで、本当の甚八さんなんて知らない。どうしてそのことに気付かなかったのだろう。

「甚八さん……」

 そう呟くと、目頭が熱くなって、冷たいものが頬を伝った。

 私は自分自身で勝手に作り上げた甚八さんに恋をして、勝手に失恋した。
 私は多分、世界で一番空しい恋をした。
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