きみが空を泳ぐいつかのその日まで





左肘のあたりに何かが触れた。
それは帰りのホームルーム中のこと。
左隣からすっと現れた長い指が、四角い小さな紙を机のうえに置いてった。

『弁当箱洗って返す』

書かれていたのはそれだけ。

『今返してくれていいよ』

急いでそう書いて、その手紙を返した。
ただの連絡なのに、すごくドキドキしてる。

手紙をひらいた久住君は顔色ひとつ変えずに、今度はお弁当箱を私の脇腹のあたりに低く差し出した。

こういう率直さがなんだかまぶしい。
どこか、千絵梨と似てるかも。

でもお弁当箱を受けとってしまってから、この手紙を使ってずっと聞きたかったことを聞けばよかったなと後悔した。

帰りはどうするつもりなんだろうと1日中考えていて、いつ声をかけたらいいのかと迷っていたらあっという間に放課後が来てしまった。

こんなに時間が早く過ぎたのはものすごく久しぶりだったし、もし帰りも一緒なら、昨日とは味付けのちがう卵焼きの言い訳もできる。

でも、一緒にいるところをクラスメートには見られたくない。戸田さんのあの刺すような視線は警鐘。
そんなふうに心はぐらぐらと揺れて、1日中落ち着かなかった。

「あの……朝は、ありがとう」
「へ?」

チャイムが鳴ってすぐ、早くも席を立とうとしている久住君に、思いきって声をかけた。

「遅刻しなくて、すんだから」
「それ今頃言う?」

久住君は笑うと片えくぼができるんだって、この時初めて知った。

彼の言葉の最後にはいつも不思議な余韻があって、だからその時間を借りてつぎの言葉を探すことができる。

気持ちばかりがあせって金魚みたいに口をパクパクさせているのを笑わずに、今だってそこに立ってくれている。

「えっと……帰りはどうしたら」

だから、やっとその言葉が言えた。

「気にしなくていいよ、誰かに乗っけてもらうから。よくよく考えたら女の子の後ろってやっぱカッコわるいし」

言葉足らずなのにちゃんと伝わってる。そのうえ明るく返してくれる。

「明日の朝は?」

言いかけたら彼はちょっと迷い始めた。

「そっか、朝ねー」

そう言ってスクールバッグを肩に担いだまましばらく悩んでいた。

「あとでメールしていい?」
「……うん」

久住君はやっぱりひと呼吸置いて席を去ろうとしてふと、足を止めた。

「そういえばさ」

うつむいていた顔をあげた。

「卵焼き。しょっぱいのと甘いのと作り分けできんだね。どっちも旨かったし、すごいね」

見上げた先にはやっぱり笑顔があって、うっかりまばたきを忘れた。

大きな切れ長の目が、笑うとどうしてなくなるんだろう。両端の口角がきゅっと上がるのは、どんな仕組みなんだろう。

その場の空気やまわりの視線に左右されずに、どうやったらそんなにまっすぐ堂々と立っていられるんだろう。

久住君の笑顔を直視することができなくて視界のすみにただそれを捉えながら、彼が今くれた言葉を胸にそっとしまった。

「……久住君の、お弁当はすごく」

口下手なはずの自分が、気づくと勝手に喋りだしていた。

「すごく?」
「うん。すごく、カラフルで」
「だろうな。女子ウケ意識したもん」
「優しい味がして」
「マジで? 人柄出ちゃってた? てかさ、俺の料理の腕前にビビったろ?」
「うん……きんぴら、とか」
「いやそれレンチンだわ」
「ウィンナー、とか」
「タコさんな。俺カニも作れるよ」
「……ありがとう」
「いや、盗み食いしたのが悪いんだし」
「ごちそうさま、でした」
「こちらこそご馳走さまでした」

か、会話が、できた!

「ふぅ」
「何その息つぎ」

お互いに吹き出してしまった。

「もうチャリンコ漕ぎながら寝るなよ?」
「……うん」

久住君を呼ぶ誰かの声がして、彼はみんなと楽しそうに話しながら行ってしまった。

少しずつ遠ざかってゆくその背中を見つめていると、言葉にできないさみしさが、急な来客みたいに胸をノックした。

彼のまとう優しい空気や、あの甘くて清潔な匂い。まっすぐな眼差しや芯のとおった言葉に、もっと触れていたかったな。

どっちの卵焼きも美味しかったと言ってくれたことに、今どれほど励まされているかわからない。

お父さんの悲しみは悲しみで、私の苦しみは苦しみで、それ以上でも以下でもないよと言ってもらえたような気がした。

それは月も星もないのっぺり黒いだけの夜に突然落ちてきた彗星みたいにハレーションを起こして、一瞬で夜を昼間に塗りかえてしまうような力があった。

自分もそんなふうに強く明るくいられたら、お母さんは泣かなくてすんだのかな。
千絵梨とは仲良しなままでいられたのかな。

お父さんの抱えている何かに、気づいてあげられたのかな。家族はバラバラにならずにすんだのかな。

彼みたいに生きられたなら、きっと毎日はキラキラと輝き出すんだろう。
でも、ささやかにそう願うことさえ、私にはやっぱり許されていなかった。
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