きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「ありがとう、久住君」
「はい?」
「食べてくれて」

長く瞬きをし忘れて潤んだ瞳を、ゆっくりと伏せた。

「えーと、盗み食いして感謝されても……」

気まずくて意味もなく首の後ろを掻いてみた。
風がふわりと吹いて、肩まである彼女の柔らかそうな髪が揺れた。
淡い光を透かした茶色の毛先が頬を微かに撫でて、胸のリボンを当たり前のように翻してる。

誰かを祝福するみたいにいっせいに散った桜が、青空を泳ぐ魚の群れみたいだった。

たったそれだけのことが、悲しい映画のワンシーンのように胸に迫ってきて、こういう気持ちをなんと形容するのか俺にはちっともわからない。

ただ、神崎さんがやけに小さく見えてしまった。手足も細くて頼りない。

こんな華奢な子に全体重を委ねてマジ寝しようとしていたさっきまでの自分が信じられないくらいだった。

ひたすら反省していたら、学校のほうからはっきりとチャイムの音が聞こえてきた。

「げっ、マジかよ」
「どうしよう」
「いいから早く後ろ乗って!」
「えっ、だって……」
「優等生ってのは遅刻しちゃダメなんだろ、ほら」

ちょっと強引に後ろに座らせて、自転車に跨がると左足でペダルを蹴った。

「あの、どこを持てば……」
「適当にその辺掴めよ。あぶないから」

遠慮がちな手が背中辺りに触れた。

「なんか、甘い匂いがするね」
「匂い? ごめん、それ弟のゲロかも」

ユキはミルクを飲んだあとに高確率で戻す。弟のことを隠す必要がないのが気楽だった。

「ううん私知ってる。これって頑張ってるママの匂いだよ」

背中にそっと頬を寄せられたような微かな温度を感じた。

「ゲロじゃなくて? 俺からママ臭が?」

ペダルを蹴りながら、吹き出してしまった。

「うん、同じ匂いがする。みどりさんと一緒だ」

独り言みたいなつぶやき。

「ふーんそうなんだ。てか誰それ」

神崎さんの言葉を適当に聞きながら、自分からママフェロモンが出ているのを想像してむず痒くなった。

「片方だけ、袖がしわくちゃだね」
「あぁ、これね」

自分の左袖を見た。

「なんでかいつも忘れるんだよ、せっかちだからかな」
「自分でするんだ。すごい」
「当たり前っしょ」

後ろで神崎さんが笑ったような気がしたから、気分がよくなってガンガン左ペダルを漕いだ。

「昼休みさ、弁当一緒に食べない? せーので開けんの」
「それはちょっと……緊張するかも」
「ふーん、そっかぁ」

自分みたいに粗雑なのがいるように、何でも気になる繊細なタイプの人もいて当然だよな。

「じゃあもっと仲良くなったらそのうちな」
「もっと?」
「うん、だって同クラじゃん。席も隣だし」

彼女を乗せて薫風ってやつのど真ん中を突き進むと、一度散った桜の花びらがまた足元からいっせいに舞い上がった。

彼女の自転車はサドルが低くて漕ぎにくかったけど、ギリギリでなんとか教室に滑り込む俺達を想像して、それも悪くないなと思った。

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