きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「私はただ千絵梨と話がしたいだけなの!」

掴みかかってでもさっき遮られた言葉のつづきを伝えたくていっぱいの空気を胸に吸い込んだ。

それなのに思い切り手を振り払われた弾みでよろけ、そのまま後ろの噴水に倒れこんでしまった。

目の前にいきなり非日常が現れる。
言葉にできなかった気持ちがちいさな気泡になって次々と消えていくのを、音のない映画でも眺めるように、ただぼんやりと見ていた。

枯れた葉っぱやごみ屑、それから虫の死がいが浮遊する影。
ぬるりとした噴水の底の手触りだけがどうしてこんなにリアルなんだろう。

息がつきて上体を起こすと千絵梨が目に涙をいっぱい溜めてこっちをにらんでいた。

その他大勢の人たちと同じような目で私をじっと見つめながら、そばまで歩いてくる。

「もー死んでんの」

千絵梨の口がそうしゃべった。
彼女はもう震えてなんかいなかった。

「あんたを助けた人は死んでんの、あのときに」

もう水中じゃない。
それなのに、声が出ない。

「ほんとだよ。あんただけが知らなかったの。お気楽なもんだよね」

その一音一音があまりにも重くて、それが千絵梨の声だと理解するまでにものすごく時間がかかってしまった。

去っていく千絵梨の背中が見えなくなっても、噴水のなかから動けない。そんな私をみんなが見てる。

クスクス笑う声や怪訝な話し声、遠慮がちで不躾な視線。

圧倒的な無関心を痛いくらいに感じるのに、体も心も壊れてしまったように動いてくれない。

なんで千絵梨はあんなイジワルを言うの? 私を助けてくれた人があの時に死んだのなら、私が生きつづけてきた今までずっと、その人は死につづけてきたってことになる。

この先もずっと、死んだまま。
そんなひどいことがあっていいわけない。

膝が震えて、逃げ出したくなって、今すぐにでもこの世界から消えなきゃいけないような気がしてくる。
それなのに水をたっぷり吸った体が重くて一ミリも動けない。

「うそ……みーちゃん?」

声に振り返ると、みどりさんがぽかんと口を開けてこっちを見ていた。

「何がどうしちゃったの?とりあえずここから出よう、ね?」

会いたかった人が目の前にいた。
みどりさんは昨日も着ていたグリーンのカーディガンを脱ぐと、荷物を足元に置いてなんのためらいもなく噴水のなかに入ってきた。

ベージュのロングスカートは空気を閉じこめ一瞬ふくらみ、水を含むとすぐに彼女の足にまとわりついた。

ざぶざぶと音を立ててみどりさんがこっちにやって来る。彼女が身に付けている真っ白なブラウスがやけに眩しい。

それが今朝自転車の後ろから見た久住君のシャツと重なった。袖のとこだけシワシワの。優しい彼の笑顔を重ねずにはいられなかった。

「ねぇ、逃げてった子いたよね? なんなのあの女! みーちゃん突き飛ばされたんでしょ」

濁った水を掻きわけてやってきたみどりさんは哀れむでも心配するでもなく、子供みたいな大声でいきなり千絵梨を責めた。でも荒々しい口調とは真逆で背中に触れてくれた手は真綿みたいで。

平気です、さっきのは姉なんですって説明したいのに、声がうまく出せなくて首を横に振った。

「まぁなんか理由があるにしてもさ、あの子ケンカふっかけてきたんでしょ? やな感じ!」

千絵梨にたいする嫌悪感をみじんも隠そうとしないで、不機嫌なふくれっツラでそう言うみどりさんに、おどろくほどなぐさめられてしまった。
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