きみが空を泳ぐいつかのその日まで
どうせ避けられる。そう思ってわざと軌道を外したらそれが偶然ヒットして、その人は呻きながらよろけて、水溜まりのなかに転がった。

両の手のひらがビリビリと痺れた。これはあの男の子に対する憎悪の波動なんだ。
自分にもそんなものが潜んでいるとわかって、途端に怖くなった。

しかも咄嗟に払われた反動で棒は遠くへ転がってしまい、早くもたったひとつの武器をなくした。

お腹を押さえて荒い息を吐きながら、鋭い目がこっちを見据えている。

そのとき、突然スマホからけたたましいサイレンの音が鳴り出して、倒れていた人たちはよろけながら逃げ出していったけれど、その人だけはそこを微動だにしなかった。

意識をほとんどなくしてグッタリしている久住君の前に立ちはだかってみたけれど、雨に打たれ続けた身体が急速に凍っていくように、まばたきひとつできなくなった。

どうしよう、もう何も考えられない。
心細さに飲み込まれそうになりながら、それでも両腕をしっかり広げて久住君のまえにいつづけた。

「ほんとに来たんだ? 女のくせにキモ据わってんね」

太い声とどろりと淀んだ目がジリジリと迫ってきたとき、硬直した背中のうしろで久住君が少し動いた気がした。

「……逃げて」

首筋に微かな息が触れて、それが暖かくて、泣きそうになった。
だから正面を見据えたままで、力強く首を横に振った。

「頼む……行けって」
「いやだ」

地面を這うように迫ってくる男の子から目を逸らさないよう、唇を強く噛んだ。

前のめりになって、額から血を流している知らない人の汚れた指がすぐそこにある。
うまく息ができなくて肩があがる。

目をつぶることすらできない。
でも逃げたくない。
みどりさんが私に託してくれたから。

彼女がしてくれたのと同じように、彼を守りたい。彼がしてくれたのと同じように、私だって彼を助けたい。

「動かないで……信じて」

耳の後ろで、消え入りそうな呟きが聞こえた。

「なぁおまえけっこー可愛いじゃん。もっと近くでよく見せろよ」
「やだっ、やめて!」

太い指が胸元にのびるより、久住君が私の背後から飛び出す方が早かった。

一瞬何が起こったのかわからなかったけれど、気づくと久住君はその人に馬乗りになって彼を殴り続けていた。

本物のパトカーのサイレンが遠くから徐々に迫ってきて、相手が気絶してるのに取り憑かれたように殴るのをやめようとしない彼の肩をあわてて掴んだ。

「もうやめて、気絶してる!」

雨音にかきけされないよう叫んだら、久住君はうなだれたままゆっくりこっちを振り返った。

血が滲んだ拳におそるおそる触れようとしたら、その手を思いきり振りはらわれてしまった。

「……なんでいるんだよ?」
「それは……」
「行けって言ったろ」
「でも!」
「絶対来んなって言ったろ!」

息が止まって、声は出口をなくした。

「いつも人の周りチョロチョロしやがって……邪魔なんだよ。もう近寄んな、今後一切」

頭上で、雷鳴が轟いた。

「まだわかんない? マジ迷惑だっ……」
「久住君!」

ぐにゃりと揺れてそのまま後ろに倒れそうになった彼の上体をあわてて支えた。

ずっとうつむいていて見えなかったその顔はいびつに腫れて、青ざめて傷だらけだった。

あんなにきれいな黒髪が血と泥で汚れて、冷えた頬にまとわりついている。

雨が、空が、世界がぐんぐん彼の体温を奪っていく気がして、どこにも連れていかないでって懇願しながら隙間もないくらいに久住君を抱きしめた。

みどりさんが私にしてくれたことのすべては、今このときのためにあるんだよね。そうわかっているのに、そのすべてに侘びる事しかできないなんて。

「ごめんね、ごめんね」

後悔と懺悔に押し流されそうになりながらただ胸に久住君を抱きしめて、その冷えきった頬に自分の頬を寄せた。

この体温で許されるなら、すべて吸いとってほしい。
謝り続けることしかできないなんて、自分はなんて無力なんだろう。
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