きみが空を泳ぐいつかのその日まで


どうして知らない人が電話に出るんだろう。

優しい話し方だったけど、久住君の友達だとはどうしても思えなかった。いやな予感がするのは、あの無機質でくぐもった声のせいだ。

電話の向こう側から、雨音に紛れて久住君の声が聞こえたような気がして、早く行かなくちゃと歩道橋の階段を踏みはずしそうになりながら駅の方へとにかく走った。

不安ばかりがふくらんで、水しぶきと焦りのせいでうまく前に進めない。

雨がまた強くなった。
異世界に迷いこんだみたいに空は黒々と暗くて、立ちならぶお店のネオンもビルの明かりも血のかよわない魔物の光る目みたい。通りすぎる人たちはみんな浮遊してるように見えてしまう。

得体のしれない胸騒ぎに押し潰されそうになっていたとき、近道をしようと迷いこんだ細い路地で誰かに呼ばれた気がして振り向いた。

そこは磨りガラス越しにあたたかなオレンジ色の光が漏れる小さな居酒屋で、中からリラックスした笑い声が聞こえてきた。

久住君の家にお邪魔した日のことを思い出す。彼の家族が思い出せてくれたんだった。うちにだって、みんなでテレビを見ながら同じ場面で笑いあう、そんな日常があったことを。

ぎゅっと唇を噛んで、目を強くこすった。
歯を食いしばれ。
ぐずぐず泣いたって、何も変わらない。
みっともないだけだ。

そう自分に言い聞かせて、その店の脇に積んであったビールケースを持ってくると、なんの迷いもなくその上にのった。
お店の人、ごめんなさい!

サイドにある留め金を乱暴にはずして、暖簾を棒ごと引き抜くと、それを強く握りしめた。

みどりさん。あとほんの数分でいいから、どうか力を貸してください。

頭のなかがやけに冴えて、がむしゃらに彼のもとへ向かうだけじゃダメだと思い、アプリをひとつタップした。

それはスマホを持たせてもらったときに、お父さんが入れてくれたもので、パトカーのサイレンっぽい音が鳴るだけの防犯ブザーだった。5分後から数分おきに鳴るようにセットして、また雨のなかを走った。

彼の身に何が起こってしまったのか、今何が起こっているのかまったくわからないからこそ、足手まといにだけはなっちゃいけない。

でも、店舗のバックヤードが並ぶ陰気で雑念とした路地を抜けると、もうその先へ進めなかった。
人が転がってたから……それも四人。

みんな私服だったからすぐに彼じゃないとわかったけれど、安心するには早すぎた。
降りしきる雨の向こうに目を凝らすと、街灯の明かりすら届かない場所に久住君と誰かをみつけた。

殺伐としたモノクロ写真のなかに閉じ込められたみたいにその表情は苦しそうで、壁にめりこむほどに首を押し付けられている。

からだが硬直して、足だけが震えた。
でもひるんだり迷ったり、そんな選択肢はない。

だから棒をしっかり握り直した。
その気配に気づいたのか、男の子がこっちを振り返る。

焦点のあわない目で睨まれて息を飲んだ。でもためらったら一歩が永遠に踏み出せなくなる。

そのまま駆け出して、握りしめた棒をありったけの力でその人めがけて放った。
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