例えば世界が逆さまになっても




『ケガはありませんか?』

そう尋ねてきた若菜に、俺はどう答えたのか、ハッキリとは覚えていない。
ただ、その姿も、声も、優しいセリフから推察できるおおよその人柄も、とにかく、美しい人だと思ったのは覚えている。
そして、さっきの警察関係者を呼んだような叫びが彼女の芝居だったと聞き、その勇敢な正義感にも感動したりした。

俺とは、まるで住む世界が違う人みたいだな……


率直に感じた印象だった。
劣等感の塊だった俺には、眩し過ぎる人だったのだ。
彼女はさらに、俺のシャツがジュースの染みで汚れてしまったことに気付くと、『大変、すぐに洗わないと』と言い、近くにあった手洗い場に俺を促した。

『いや、いいです……』

蚊の鳴くような声で遠慮してみても、俺の腕を引っ張って先に歩く彼女には届かない。
他に選択の余地がないように、俺は彼女に従った。

彼女はわざわざ自分のハンカチを濡らして、俺のシャツを拭いてくれた。
そして、少しの会話の中で、互いに同じ学年であることが判明すると、すぐに砕けた話し方に変わった。


『うん、ここまで落ちたら、あとは洗濯機で洗えば大丈夫かな』

俺の胸の辺りに屈んだ彼女の髪がかかって、なんだかとてもいい匂いがした。
シャツにかけられたジュースと同じような甘い匂いなのに、それとは全然違う。可愛い匂いだ。
女姉妹もいないし、ずっと男子校だったおかげでほとんど同年代の女子との接点がなかった俺は、俺の人生で前代未聞的に接近した彼女との近さに、心臓が爆発するんじゃないかと怖くなるくらいに緊張していた。
しかも彼女は、

『でも、あんな感じ悪い人達にもちゃんと注意できるなんて、かっこいいね』

なんて、俺が今まで一度たりとも言われたことのない言葉をかけてくれたのだ。









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