翡翠の森


景色なんて、見る暇も勇気もなかった。
ただ、ロイの背中で目をぎゅっと閉じているだけ。
どうして、会ったばかりの他人の背中に、これほど大きなものを預けなくてはいけないのだろう。
体の重みも、これからの人生も。
不安で恐ろしくて堪らないのに、気軽に触れられるほど信用してもいないのに。
今は否応なしに、しがみついていなくてはいけないだなんて。

人の心には分厚い壁があるのに、国境とはこうも容易く越えられるものなのか。
とてつもなく遠く感じられる心の距離とは裏腹に、実際に駆けた距離も時間も僅かなものだ。


「お疲れさま、ジェイダ。今日はここで一泊しよう」


降ろされたのは、普通の宿屋。
自分には親近感があるが、とても王子様二人が泊まる所とは思えない。


「あ、ごめん。城に着いたら、もっといい部屋を用意するよ」


ぽかんとしていると、勘違いしたのかロイが言った。


「違うわ。私には十分すぎるけど、二人は大丈夫なの? 」


国境付近の小さな町だ。
王子がふっと現れたりして、パニックになったりしないのだろうか。


「何だ、そんなこと。トスティータの気候じゃ、さすがに野宿は厳しいけど。僕らのことは、心配いらないよ。ねぇ、アル」


「問題ない。何せ、あの森でうたた寝ができるくらいだからな」


そういえばそうだ。
滅多に人は立ち入らないとはいえ、敵国で無防備に寝るなんて。


(……変な王子様)


「そういうこと。ふかふかのベッドじゃないと眠れない、軟な男だと思ったんだ?」


意地悪に顔を覗き込まれ、口がへの字になってしまう。


(普通、王子様ってそうなんじゃないの? )


王子の知り合いは他にいないので、ただの想像だが。


「僕らよりもさ。ジェイダの方が疲れただろ? 」


ニヤニヤ笑いが止んだと思うと、ふわりとジェイダの肩に外套が掛けられる。


「着の身着のまま連れて来て、悪かったね。到着したら、本当にちゃんと準備させるから。今日は、ゆっくり温まっておやすみ」


目立たない為かシンプルな作りだが、上質で熱を逃がさない。


「でも、ロイ……」

「女の子に上着を返されるなんて、恥だと思わない? 」


そう言われては、受け取るしかない。
品のいい香りに気がついたからか、今まで着ていたロイのぬくもりを感じるからか。
黙ってしまったジェイダを満足そうに見ると、胸の前のボタンを留めてくれた。
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