頑固な私が退職する理由
「ほれ」
彼はそう言っておもむろに両腕を開く。
私は吸い込まれるように彼の胸に飛び込んだ。
こんな風に彼と正面からハグをしたのは久しぶりだ。
しがみつくように抱き締め、首元に顔を埋めて、朝とは違う彼のにおいを深く吸い込む。
朝のフレッシュな香りもいいけど、やっぱり私はこの時間のまろやかなにおいの方が好きだ。
背中と肩に締めつけを感じ、彼が抱き返してくれたのがわかった。私がぎゅっと力を込めると、応えるように頬に優しいキスをくれた。
恋人のように甘やかされ、幸福感で満たされていく。
「ねぇ」
「ん?」
私たち、どうして付き合ってないんだろう。
こんなに近い距離にいるのに。
こんなに好きなのに。
……とは言えないから、その代わりに。
「私、青木さんのにおい好き」
「は? ちょ、嗅ぐのやめろよ、恥ずかしい」
彼の体温で温まった私の腕から愛用している香水の香りが微かに漂ってきた。ふたりのにおいが混じって、より幸福度が増す。
マーキングというわけではないけれど、彼に私のにおいを付けたくて、腕にまた少し力を込めた。
彼が帰宅してシャワーを浴びれば消えてしまうだろうけれど、この香りが少しでも残っている間は、彼を誰にも取られない気がした。
私が泣き止み落ち着いた頃には、午後8時を回っていた。
彼の白いシャツの肩口が涙を吸って濡れている。流れたアイメイクの粒子やファンデーションの色も移ってしまっているようだ。
「ごめん。シャツ、汚しちゃった」
こうなることを危惧して極力顔が触れないよう気をつけていたのだけれど。リップが付かなかったのは不幸中の幸いだ。
「いいよ。隠れるし、洗えば落ちるだろ」
青木さんは気にする様子もなくジャケットに袖を通し、その上にコートを羽織った。マフラーを巻けば、私と抱き合った痕跡はまったく見えなくなる。
手早くメイクを直し、私もコートを羽織る。
スタジオから駅に向かうまでの道を、私たちは手を繋いで歩いた。