頑固な私が退職する理由

 青木さんに初めてしじみの味噌汁を食べさせた朝に彼がよそよそしくなってしまった理由について思い当たったのは、しばらく日にちが経ってからだった。
「しじみは冷凍した方がオルニチンが多く摂れるらしくて、保存も利くし、下処理だけして常備してるんだ。昨日はなんだかんだで、お互いに飲みすぎたからね」
 これは、前日結婚式の二次会で酒を飲みすぎた彼の健康を気遣っていることをアピールするための言葉だった。
「お互いに飲みすぎた」という言葉を使ったのは、私自身も彼ほどではないにしろたくさん飲んだからだ。
 しかし彼は、私が「私たちが致してしまったことを、酒のせいにしてなかったことにしよう」と提案したのだと思ったのではないだろうか。
 彼は私も二次会でたくさん飲まされていたことを知らなかったから、私が無理矢理自分も飲みすぎたことにしてまで、彼との夜を否定しているように見えていたかもしれない。
 そう思い至った頃には、すでに私たちの新しい関係が確立していた。今さら「あの時のあの言葉はこういう意味だったの」と言えるような状態ではなくなっていた。
 とはいえ、もし彼に齟齬なく伝わっていたとしても、彼との関係が「恋人」と呼べるものになっていたとは限らないが。

 2月下旬。
 3step Nailsのリリース準備はほぼ完了した。
 サイトはすでにオープンして、事前受付を開始。同時にSNSによるPRやウェブ広告も出している。
 雑誌やテレビなどへは青木さんがかなり売り込んでくれていて、オープン後の3月に広告を出したり取材が来たりする予定だ。
 ここまで来ると、私の仕事はもうほぼ完了。アクセス数や登録者の推移を確認する程度だ。
 これ以降はよっぽどの不具合が出ない限り、まりこに任せることになる。
 今私が行っているのは主に引き継ぎ業務だ。ウェブデザイン課で話し合って引き継ぎ先を振り分けたので、クライアントごとの資料を作成したり、資料が完成次第顔を合わせて引き継いだりしている。
 私の退職日まで、もう間もない。
 有給消化のことを考えると、出勤するのは数えるほどだ。
< 80 / 130 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop