もしも世界が終わるなら
旅館はこぢんまりとした外観。それでも入り口付近の植え込みは丁寧に剪定され、寂れていても趣がある。
軒先の『白崎旅館』と流れる字体で描かれた暖簾をくぐり、今日は客として玄関へと足を踏み入れる。
「え……絢子さん?」
出迎えてくれた仲居さんに開口一番、聞き覚えのある名を呼ばれドキリとする。
『絢子』は母の名前だ。怪訝な表情を向けている仲居さんは、私の顔をマジマジと見つめ、ため息を吐く。
「いやね。千生ちゃんなのね?」
名前を間違えられたのは私の方なのに、「すみません」と謝りそうになって口を噤む。
彼女は椎名環さん。しいちゃんの母親だ。環さんは昔から、旅館の仲居として働いている。
着慣れた着物姿はあの頃と変わらず、当時の思いまで呼び起こす。髪を後ろでひとまとめにしているせいなのか、鋭い目つきで常に監視されているような気分だった。
今思えば、自分の息子可愛さに仲良くしている小娘が気に入らなかったのかもしれない。
当時はなにもわからず、ただただその目に怯え、避けるように母屋に籠り旅館に寄り付かなかった。