君の音に近づきたい


私がピアノを始めたのは、今の家に引っ越して来た五歳の時。近所で優しいお姉さんがピアノ教室をやっていると聞いて、軽い気持ちで始めたのだ。
やってみたら、凄く楽しかったのを覚えている。先生もすごく優しくて可愛くて。すぐにレッスンが好きになった。

『春華ちゃん、すっごく上手! 素敵な音!』

そうやって、通うたびに言ってくれるものだから、自分はとびきりピアノが上手な子なんだと思っていた。
小学校に入学すると、同じクラスになった子たちの中には、ピアノを習っている子がたくさんいた。

『わたし、コンクールでトロフィーもらったの!』

そんな言葉を聞いて、心から羨ましいと思った。

大好きなピアノを弾く大会に出たら、ご褒美までもらえるの?

『わたしも、コンクール出たい!』

それがどんなものかも知らないで、自分も出たいと強く思った。

『私、ピアノ上手なんだよね? だったら、私も出られるよね?』

いつもいつも、先生からも親からも、
『春華は上手』
そう言われていたから、自分が上手いんだと信じて疑っていなかった。絶対に賞がとれるんだと思っていた。

――でも、結果は、予選すら通らなかった。
幼心に、初めて誰かに『負ける』という感情を知った。
誰かと比べられて順位をつけられる。そこに、『あなたの演奏ではダメです』とはっきりと結果を告げられる。その事実に、ただただショックを受けた。

『私、ピアノ、上手いんじゃないの?』

泣きじゃくりながらそう言う私を、困ったように悲しそうに見つめる両親。
そして、誰より苦しそうな顔をしたのは先生だった。

『ごめんね。春華ちゃんは悪くないんだよ。全部、先生が悪いの。だから、こんなことで自信をなくしちゃだめ。何より、ピアノを嫌いにならないでね』

先生まで泣きそうになっていたのを覚えている。
とにかく、大人が考えていた以上に傷付き大号泣する私を見て、お母さんが言った。

『コンクールなんて出なくていいものなんだよ? 音楽は楽しむものだから、誰かと競争したりする必要ない。春華は春華の好きなように、楽しくピアノを弾こうね』

若干七歳にして初めての挫折。
周りの大人が言うほど、実は上手じゃなかったという悲しい事実。その時のショックと衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
それでも、何故かピアノを弾くのをやめたいとは思わなかった。やっぱりピアノを弾くのは楽しいし好きだった。

それから、私はコンクールに出ることもなく、ただ楽しくピアノを弾いて来た。

でも、心の中に、二宮奏のピアノが居座るようになってから、私の心の中には何か引っかかるものがあった。
それが何なのかははっきりしない。
ピアノを弾くのが楽しくて好きだという気持ちしかない私が、こんな場所に入学したのは、その答えを見つけたいからだという理由もあるのかもしれない。

中学生になってからは、とにかくここの高校に入りたくて、受験に必要な曲を完璧にするのに精一杯だった。
結局、名のあるコンクールなど無縁のまま来てしまったのだ。

改めて、教室内を見渡してみる。
クラスの半数はピアノ専攻の生徒。
その誰もが凄い人に見えて来る。

分かっていたことではあるんだけれど。
そうなんだけれど――。

「実技レッスンも始まるし、ゴールデンウイーク明けの公開レッスンもある。とりあえずそこで恥かかないように練習することだね」

クールな言葉を残して、香取さんは席を立った。


放課後、早速練習室を借り、練習することにした。
高校の校舎の地下には、いくつもの練習室が並んでいる。

廊下を歩けば、ピアノやバイオリン、フルート、チェロ、様々な楽器の音が聞こえて来る。

私が借りた練習室は、013――。

廊下にずらっと並ぶ鉄の扉。
その扉にはガラス窓がスリットのように入っていて、部屋番号が表示されている。

まだまだ慣れない校舎内で、きょろきょろとすべての部屋番号を確認しながら廊下を歩いた。

いろんな楽器の音が混ざり合っていたのに、不意に、その中である音が鮮明に浮き上がる。

聞き間違えたりしない。
この音は、絶対に――。

その音に吸い寄せられるように足取りが早くなる。

もっと近くで聴きたい。もっと――。

廊下の突き当りの練習室、そこがその音の発信源だった。

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