君の音に近づきたい


「……え?」

二宮さんの雰囲気が一変する。
このレッスン中、厳しくて意地悪なことばかり言っていた。でも、それとは全然違う。

「そんなもん、買わなくていいから」

「どうしてですか?」

私に背を向けた二宮さんに、問いかけた。

「――言っただろ? 今の俺は、あんたが思っているような音は出せないって。あんなピアノ、聴くだけ無駄だ」

その目は、一瞬言葉を失ってしまうほどに冷めきったものだった。
怒りのような諦めのような、そして、どこか自分自身を蔑んでいるような。
そんな二宮さんの目に、胸の奥がズキンと痛む。

「……で、でも。二宮さんの演奏が素敵だから、二宮さんの演奏を聴きたいって思う人がたくさんいるからCDだってリリースされるんですよね? それなのに、どうしてそんなこと――」

「俺の演奏が素敵だから……本当にそんな理由でCDなんか出してると思ってんの?」

「もちろんです。私は、二宮さんの弾くピアノ、凄く好きですから」

私の公開レッスンの日、二宮さんが私に言った言葉を思い出す。

――楽しく弾いているわけじゃないから。

怖いほどに透き通るような目を見つめていると、二宮さんが呆れたようにふっと息を吐いた。

「――あんた、最近、俺のリサイタル来たことないだろ」

「は、はい。ここ二、三年は、全然チケット取れなくて」

どうしてそんなことを聞くんだろう。

「だと思った。あんたは知らないだけ。最近の俺の生の音を聴いていないから。あんたが好きだって言ってる音と、今の俺が出す音は違うものだよ」

「でも……っ! 私、入学式の講堂で、二宮さんの演奏を聴きました。この前、ここの廊下で二宮さんの練習している音を聴きました。それは、私の知ってる二宮さんの音だった!」

そうだ。入学式の日、二宮さんのピアノを間近で聴いて、心から感動した。
いろんな人の楽器の音が溢れるこの廊下で、私は確かに二宮さんの音を聴き分けた。

「……確かに。入学式の演奏は、少し真剣に弾いたからな。新入生に舐められんのも嫌だったし。でも、どちらにしても、もう俺にはキラキラした音なんて出せねーよ。それは俺自身が一番よく分かってる。じゃあな」

「ちょ、ちょっと――」

今度はもう、二宮さんは振り返らなかった。

一人になった練習室で立ち尽くす。

一体、二宮さんは今、どんな気持ちでピアノと向き合ってるの――?

ピアノを弾くのは楽しくないと言った。
胸が痛くなるほどの冷たい目に、どんな気持ちが隠されているんだろう。

全部、どこか、諦めているような言い方。

あんなにも何もかもに恵まれているのに……。

分からない。
私なんかが、二宮さんの気持ちを分かるはずもない。
それでも、どうしても考えてしまう。
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