アリサ・リリーベル・シュタルクヘルトは死んだ
 出掛けると言われても、どこに出掛けるかわからない以上、どれを着たらいいのかわからなかったので、クローゼットにかかっていた洋服の中から臙脂色の膝下まである丸襟のワンピース、黒色のタイツに着替える。
 帽子は迷ったが持って行かず、代わりに頭の上で藤色の髪を一つに結び、薄茶色のコートを手に持つ。
 ミニサイズのハンドバッグに荷物を詰めて、軽く化粧をしていると、車のエンジン音が聞こえてきた。
 慌ててハンドバッグを持って階下に降りると、丁度、屋敷の前につけた車からオルキデアが降りてきたところだった。

「お待たせしてすみません」
「今、着いたところだ」

 オルキデアの手を借りて、後部座席に乗る。
 昨日、軍部から乗ってきた車よりは年季が入っているが、乗り心地は悪くなかった。

「さて、まずは宝飾店だな。結婚指輪を買わなくては」

 車を出しながら話すオルキデアに、「あの……」とアリーシャは申し出る。

「セシリアさんたちは、ああ言っていましたが、あくまで仮の関係ですし、用意しなくてもいいんじゃないかと……」

 確かに、結婚したのにお互いに結婚指輪をしていないのは怪しまれるかもしれないが、それは付けていない理由を言えばいい。
 シュタルクヘルト(あっち)でもそうだったが、結婚しているにも関わらず、仕事や家事を理由に指輪をつけていない人は結構いた。
 この国ではどうなのかわからないが、一時的な関係なら尚の事、わざわざ用意するものでもないだろう。

 そう考えて、アリーシャは申し出たが、「そうじゃないんだ」とオルキデアは前を向いたまま答える。

「仮とはいえ、夫婦だからという理由ではない。何かあった時に備えて、持っていて欲しいんだ」
「何かあった時……ですか?」
「この先、君が一人で生きていくことになった時に。将来はこれを売って、生活の足しにするといい」
「そんな、結婚指輪なんて売れません! 関係が解消した時にはお返しします」
「いや。それくらいは受け取ってくれ。こちらの事情に付き合わせてしまったお詫びに」
「付き合わされてなんていません! 私の方こそ、私の事情に付き合って頂いて……」

 オルキデアの側に居たいというのは、アリーシャの我が儘だ。国に帰りたくないというのも。
 オルキデアはもっと我が儘や自分の意見を言っていいと言う。
 けれども、自分はもう充分、我が儘を言っている。これ以上、何を言えばいいのだろうか。
 オルキデアは前を向いたまま、「付き合っているなんて考えていない」と話し出す。

「俺は自分の意思で君と一緒に居るんだ。この一時的な結婚も、君がいいと思ったから君に申し込んだ。ただ、それだけだ」
「それなら、私も付き合っているなんて思っていません。私もオルキデア様と……」

 ーー少しでも長く一緒に居たいと、そう思ったから結婚を決めたんです。

 言いかけた言葉を飲み込んで、アリーシャは別の言葉を口にする。

「オルキデア様のお役に立ちたいと思ったので、一緒に居ることを選びました。これは自分の意思です」
「そうか」

 端的に言うと、オルキデアはスピードを落として車を停車させた。
 窓から前方を見ると、どうやら小さな子供たちと親と思しき親子の集団が道路を渡っているようだった。
 あちこちにフラフラと歩く子供たちで、同じように子供たちを待っている車が列を成しているからか、道が混んでいた。

「それなら、結婚指輪以外にも何か宝飾品を送ろう。これからこの国で生きていくのなら、何かあった時に備えて持っていて欲しいんだ。……それだけは譲れない」

 そうして、後ろを振り返ったオルキデアが濃い紫色の瞳を細めた。
 アリーシャの心臓が小さく高鳴ったのだった。

「君には感謝している。こんな俺に付き合ってくれて。……側に居てくれて」
「オルキデア様……」
「これからも期待している。アリーシャ」

 二人が乗っている車の横を数台の車が通り過ぎていく、どうやら子供たちの集団は渡ったらしい。
 オルキデアは正面を向くと、再び車を走らせたのだった。

 初めて言われた「期待している」が、胸に響く。
 また、オルキデアから新しいモノを教えてもらったと、アリーシャは胸が温かくなっていくのを感じたのだった。
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