アリサ・リリーベル・シュタルクヘルトは死んだ

もう我慢しなくていい

 ティシュトリアが来た日。
 夕方になって、天候はどんどん悪化していった。
 夕食ーー今日は配達を頼んだ、を終える頃には、外は雷雨となっていた。

(珍しいな)

 野分だろうか。この時期に、ここまで天候が悪化したことはそうなかった。
 自室に戻らず、書斎で新聞を読んでいたオルキデアだったが、ふと前回の荒天の時にアリーシャが怖がっていたのを思い出す。

(今夜は大丈夫だろうか?)

 この屋敷来たばかりの頃、強風で庭の梯子が倒れただけでも驚いていた。静かな屋敷に響く音が怖いらしいが、外で鳴っている雷はどうだろうか。
 先程から遠くの空で音が鳴り、時折、部屋を明るくしている。
 今晩は部屋にやってくるだろうか。
 怖いからと、怯えながら、部屋にーー。

(一応、用意しておくか)

 新聞を閉じて、書斎を出る。厨房に向かうと、明かりが点いているのに気づく。

「どうした?」
「あっ、オルキデア様!?」

 厨房に居たのは、部屋に戻ったと思っていたアリーシャだった。
 ドレスを脱いで、いつものブラウスとロングスカート、最近は寒くなってきたからか、ブラウスの上にカーディガンを羽織った姿で、冷蔵庫の前に居た。

「部屋に戻ったのかと思っていた。足りなかったか?」

 食べ足りなかったのかと、暗に聞いたら、「違います」と顔を赤くして返される。

「いつもお世話になってばかりなので、たまには何か作ろうかと思って……」
「何かって?」
「以前、手料理を食べてみたいと言っていましたし……」

 恥ずかしそうに話す姿に、まだ執務室に二人で住んでいた頃、そんな話をしたことを思い出して、オルキデアは口元を緩める。

「そうだったな。だが、そう気を遣わなくていい。君には充分、助かっている」

 今日、ティシュトリアを追い返せたのも、アリーシャがオルキデアに合わせてくれたからだ。
 オルキデアに話を合わせて、「愛している」と言ってくれた。
 その場限りだったとはいえ、オルキデアは充分に嬉しかった。
 それだけで、心が満ち足りていた。

「それでも、やっぱり何かしら恩を返したいです。私がここでこうして生きているのは、あの時、助けてくれたオルキデア様のおかげです。
 医療施設で、基地でも、ずっと助けられました。いくら感謝しても足りません」

 医療施設も、国境沿いの基地でも、彼女を助けたのは偶然だった。
 たまたま、オルキデアが医療施設跡地の捜索を指示されて、たまたま、基地でのアリーシャの異変にも気付いた。全て偶然だと思っている。

「それに、一番嬉しかったのは、私にアリーシャという名前をくれたことです。
 アリサの名前が嫌だった訳じゃないんです。でも、あの名前で呼ばれる度に、シュタルクヘルト(あそこ)での惨めで、苦しい思い出や嫌な思い出、悲しい思い出が蘇ってきて……自分はひとりぼっちなんだって、もうこの名前を優しい声で呼んでくれる人はいないんだって、改めて言われているような気がして辛かったんです」

 オルキデアが心配していると思ったのだろうか。アリーシャは顔を上げると花が咲いた様な微笑を浮かべる。

「だから、アリーシャって呼ばれる度に、生まれ変われたような、心が晴々したんです。
 この国では……少なくとも、今は誰かが傍にいてくれます。ひとりぼっちじゃないって思えるんです。
 この名前には楽しい思い出が沢山詰まっているから、悲しくも、辛くも、全くないんです」

 アリーシャの白磁の柔肌の頬が赤く染まる。
 最初の頃、記憶が無くて、不安そうな、怯えるような顔をしていたアリーシャとは、まるで違う姿にオルキデアも目元を緩ませる。

「いつだって、『アリーシャ』と呼ばれる時は、楽しい思い出や素敵な思い出が側にあると思えるんです。名前を呼ばれる度に、その時の思い出が蘇ってきて、ほんのり心が弾んで……。こんな気持ちになれたのは、初めてなんです……!」
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