蛇と桜と朱華色の恋
壱 桜月夜に攫われた朝

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 幽鬼。それは神と人間がともに暮らすこの北の大地、カイムに出現する人間に似た異形のものたち。鬼と呼ばれることの多い彼らは暗闇を愛し神を選んだ人間に仇なす忌わしき存在である。
ときには人間の心の闇につけこみ寄生する闇鬼(あんき)を潜ませ、扇動し、争いと混沌に満ちた箱庭を作り、破壊することもある。
土地神に護られた人間を自分たちの玩具にし、大陸の神々を屈服させるべく、幽鬼たちは人間の寿命よりもはるかに長い年月(としつき)をかけて、いまもどこかで策謀を張り巡らせ、暗躍しつづけている。
 奴らの魔手から逃れるため、古代の先住民であるカイムの民は、集落ごとに神との契約をさせ、土地神の加護という名の結界を施した。だが、あれから千年ちかくが経ち、神々の結界もまた、あちこちで綻びが生じているのが現状である。

「……あれから十年ですか」

 幽鬼による雲桜の滅亡は、カイムに暮らす他の部族たちにも衝撃を与えた。古代の伝承でしか知らされていなかった幽鬼は実在し、いまもなお人間たちに害をなそうとしていたのだ。どの集落も次は自分のところに来てもおかしくないと感じたのだろう、この数年で術師による結界はずいぶんと強化されたように感じる。
 だが、土地神がひとと混じって暮らしている集落はまだいい。ここ、竜糸(たついと)の地は、守護してくれるはずの竜神が、湖の底で眠りこんでいるのだ。それは、もう、何百年と……!
 絹の浄衣をまとった神職の蒼い髪の青年は、水晶の縫いこまれた濃紫色の袿を纏った少女の前で、はぁと息をつく。土地神が眠りこけているせいで、とばっちりを受けている神殿の人間からすれば、神不在の状態で闇鬼だけでなく元凶とされる幽鬼の襲来をも護らなければならないのだ。下手をすれば雲桜の二の前になってしまう。
 だが、青年の前に座る少女の表情はやわらかかった。いちばん辛い立場にあるというのに、どこか楽しそうにも見えてしまう。

「幽鬼がとらえる時間の感覚は人間のそれとはまったく違うわ。その点だけは神に近いとも言えるんじゃなくて?」
「そうですね。ですが、おひとりで竜神さまの代理をつとめるのは、無理があります」
星河(せいが)。それでも、いま、代理神としてこの地を守ることができるのは、逆さ斎としてのちからを宿したあたくししかいないのよ」
「ですが、里桜(さとざくら)さま」
桜月夜(さくらづきよ)のあなたたちにはこれからも苦労をかけるでしょうけど、あたくしはやり遂げる」

 カイムの地を奪おうとする幽鬼を倒さない限り、土地神の結界に頼りきりの人間は外に出ることすら困難が伴うのだ。過去のように誰もが強力な土地神の加護を持てたのなら、すこしは違うのかもしれないが、異なる部族同士の婚姻により、生まれつき神術を扱える人間の数も激減してしまった。それに、神にも寿命がある。長々と幽鬼との対決を先延ばしにして、これ以上無駄な犠牲を増やすことなどとうてい考えられない。
 きっぱりと言い切り、里桜と呼ばれた少女は星河に命令する。
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