蛇と桜と朱華色の恋

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 何かに呼ばれたような気がする。

「誰か、いるの?」

 陽が沈んでから裏庭に出た朱華(はねず)は首を傾げた恰好のまま、視線を彷徨わせる。
けれど春の花が宴をはじめたばかりのこの場所に、不審な輩は存在しない。
 紺碧の夜空と張り合うように咲き誇る深い青色を湛える矢車草が無造作に生えるなかを歩きながら、朱華は薬草の植え込みへすすむ。
 先々には師匠が植えっぱなしにしている花木がいつものように朱華を迎えてくれる。暗紅色の芥子が囲む植え込みの奥には、ひときわおおきな桜の木が泰然と立っている。

「……もうすぐ、咲くんだ」

 淡い萌黄色の長衣を薄荷の香りのする夜風に揺らめかせながら、朱華はしみじみと呟く。
 すでに暦は早花月(さはなつき)の半ば。気づけば家の裏に植えられている桜の木には綿雪のような白くてまるい、いまにも地面に落下しそうなほどおおきな蕾が垂れ下がっていた。
 物心のついた頃から見ているはずなのに、いつ見ても飽きることのない、朱華にとって特別な木。毎年この時期になると花開く八重咲きの糸桜の白い花の美しさは格別だと、蕾の膨らんだ花木を見て、朱華は感慨深くなる。

「っといけない、お花の水やりと薬草を採ってくるよう頼まれたんだ」

 いまはまだ仕事中。物思いにふけって時間を潰すなど言語道断である。手のひらを合わせて天に掲げ、朱華はカイムの民に伝わる『雨』の神謡の一節を唱える。ぱらぱらと小粒な雨が、ほんのすこしだけ庭の植物を潤していくが、その光景を見て朱華は溜め息をつく。

「……やっぱりうまくいかない」

 自分が持つ土地神の加護は竜糸の竜神が与えた『雨』のちから。けれど、朱華が持つ加護のちからは弱く、水を操ることすらままならない。師匠が教えてくれたまじないの治癒術は上手にできるのに、基本的なことができないのが朱華の悩みの種である。

 ――師匠はあたしが『雨』のちからを使えなくても神術の素質はあるって言ってくれるけど、なんだか土地神さまに嫌われているみたいでイヤだなぁ。

 苦笑を浮かべながら朱華は桜の木の傍を抜けて、迷迭香(まんねんろう)の枝葉を摘んで、もときた道なき道を突っ切って行く。
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