冷たい雨
 彼女に話を聞いて貰いたくなったのは、写真を見て勿忘草の花の名前を一発で言い当てた事と、彼女が注文したカクテルのせいだろう。

 僕は彼女に断りを入れて、煙草に火を点けた。
 店の換気扇を回さないと臭いが中村さんについてしまうので、僕は行儀が悪いのを承知で咥え煙草のまま、カウンター裏にある簡易キッチンの換気扇のスイッチを入れた。
 いつもは閉店後、簡易キッチンの換気扇の下でホタル族の様に肩身を狭くして吸っていたけれど、そんな事をしていては会話も成立しない。きっと中村さんに『ホタル族』と言っても、言葉の意味を説明しないとすぐに理解出来ないだろう。
 受働喫煙の事をうるさく言い出した世の中の流れでこの店も禁煙にしているけれど、閉店後まで禁煙にする必要はないのだ。

 店内には空気清浄機も完備しており、消臭ビーズも店舗内の目立たない所に数個設置している。
 芳香剤は、物によって匂いがきつかったり好き嫌いが別れるため、僕は無難に消臭ビーズを愛用している。
 案外来店するお客さんも飲食後に来店するせいか、デートの締めに寄ってくれたりするせいか、食べ物や香水等、色々な臭いが混ざって店内の空気が澱んでいる事は否めない。
 だから僕はいつも開店一時間前には店にやって来て空気の入れ替えをするけれど、今日みたいな天気の日にはそれが出来ないので空気清浄機のフィルター清掃は欠かせない。これは空気の入れ替えをするとき以外はフル稼働だ。
 いくら積極的に商売をやる気がないとは言え、客商売なだけに風評被害の出る様な事だけはしたくない。

 話を煙草に戻し、昨今の禁煙ブームで巷では電子煙草が流行りつつあるけれど、僕はやはり昔ながらのこの煙草の方が好きだ。
 臭いが気になるけれど、やはり吸ったと言う満足感が堪らない。
 かつては一箱二百円位の価格だったこれが、今ではその倍以上の値段もするのだから、その当時の事を知らない今の世代の人はきっと驚くに違いない。
 そして僕よりも上の世代の人達が、誰でも手軽に購入できる低価格帯だったせいで、なかなか禁煙に成功しなかったと言う事も。

「こんな日は、どうしても思い出してしまうんです……」

 煙草を吸い込むとその炎が赤く灯り、息を吐くとその煙は勢いよく口から噴き出る。

 煙草の先の紫煙は店の中で揺らめきながら、最終的に店の中の空気清浄機に吸い込まれて行く。そう、例えるなら、なだらかな小川の水が滝壺の中に流れ落ちて行く様だ。

 煙の行きつく先を見届けると、僕は徐ろに口を開いた。
 自分の過去の扉に手をかけた。
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