悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
「そういえば、知ってる? イザベルに新たな異名がついたこと」

 化学の実験が終わって教室に帰る途中、ジェシカが意味ありげに笑った。
 とてつもなく嫌な予感しかないが、気にはなる。イザベルは歩くスピードを弱めて、隣を歩くジェシカに尋ねた。

「知らないわ。今度は一体なに?」
「女神の執行者ですって。女神のような微笑みとともに、刃向かった敵には容赦せずに裁きを与えるっていうのが由来みたいね」
「……そんなことをした覚えはないのだけど」

 怪訝に言うと、ジェシカが呆れたような顔を向けた。

「自覚がなかったの? 城下町で犯人をさらし者にしたときの風貌は、さながら地獄に舞い降りた女神だったって、もっぱらの噂よ」
「あ、あのときは……ちょっと我を忘れていたというか、黒歴史になりそうだから思い出させないで……」
「私も見てみたかったわ。悪の女神に染まりつつあった婚約者の心を引き戻したことから、ジークフリート様は勇者と呼ばれているとか」

 おもしろそうに語る声に耐えきれず、早足で階段を下りる。

(……あの日から、リシャールの見る目が変わった気がするのよね。確かにまあ、ちょっとやり過ぎたかもしれないけど、ジークは今までどおりだし……)

 主人と使用人という立場もあるだろうが、さらに、珍獣のように一歩距離を置かれている節がある。

(はあ。今後は気をつけよう……)

 階段を下り終えると、後ろからジェシカの声がかかる。

「ちょっと、置いていくことないじゃない」

 いったん歩みを止めて、彼女が横に並ぶのを待ってから再び歩き出す。

「まあ、イザベルの気持ちもわからなくはないけどね。皆に早く忘れてほしければ、新しい噂が流れるのを待つしかないんじゃない?」
「新しい噂……そうね。それが一番かもしれない」

 ジッと見つめると、ジェシカが居心地悪そうに眉を寄せた。
 あいかわらず勘が鋭いなと思いながら、イザベルは一番あり得ない可能性を口にする。

「ここでジェシカがルーウェン様と恋仲になったら、社交界はその話で持ちきりでしょうね」
「もしかして、親友を売る気?」
「まさか。ジェシカを敵に回す勇気はないわ。ただの例え話よ」
「そうよね。イザベルは私の味方だものね」

 ジェシカが納得するように頷くが、渡り廊下の先を見て、ふと足を止める。
 どうしたのかと声をかけようとする矢先、しっ、と人差し指を立てて制止されて、イザベルも動きを止める。

「誘拐事件でジークフリート様に構ってもらえて、調子に乗っているんでしょうけど。少しは立場をわきまえた方がよろしいのではなくて?」

 ややハスキーな女の声が聞こえてきて、首を伸ばして奥の様子を探る。
 渡り廊下の向こうには、ナタリアが腕を組み、その後ろに数人の取り巻きが控えていた。対するフローリアは慣れているのか、落ち着いた表情で口を開く。

「立場はわきまえているつもりですが」
「まあっ、口答えをする気? 減らず口をたたくなんて、いい度胸をしているじゃないの」
「……お言葉ですが、ジークフリート様のことがお好きなら、直接気持ちをお伝えしたらよいと思います」
「な、なにを仰っているの。私は……私は……」

 自分の気持ちを言い当てられたショックなのか、ナタリアの足元がぐらつく。
 すぐさま取り巻きたちが彼女の体を支え、大丈夫ですか、と心配する声が続く。ナタリアは精神的な衝撃が強かったのか、顔をこわばらせたままだ。
 だが、このままではいけないと思ったのだろう。
 取り巻きの手を借りながら、よろよろと起き上がる。そして、すぅっと息を吸い込んだかと思うと、まくし立てるようにして宣言する。

「私がお慕いしているのはイザベル様ですわ! 愛らしい容姿に反して、堂々とした態度と気品! あの方こそが、私の理想とすべき淑女の見本。その婚約者であるジークフリート様をたぶらかすなんて、たとえイザベル様がお許しになっても、この私が許しません!」

 興奮しているせいか、縦ロールがぶんぶんと左右に揺れる。
 しかしながら、その暴露内容は予想の斜め上だった。フローリアのみならず、ナタリアの取り巻きまでも唖然としている。
 その様子を遠巻きに見ていたジェシカは、同じく傍観者となっていたイザベルに不敵な笑みを向けた。

「よかったわね。あなたのことが大層好きなのですって」
「……返答に困るから、こっちに振らないでくれる?」

 まさかの内容に、イザベルは眉根を寄せた。
 敵意よりは好意を向けられる方がいいが、これは好物の好きとは違う気がする。果たして、この熱烈な思いをどのように受け止めるのが正しいのか。

(わからない……いっそ、聞かなかったことにしようかしら)

 困惑するイザベルをよそに、フローリアがおそるおそるといった風に尋ねた。

「つまり、今までのあれもこれも、すべてはイザベル様のため……ということでしょうか」
「当然でしょう。あなたのような平民出の娘が、イザベル様に目をかけてもらうなんて、うらやま……こほん! 貴族の位を考えれば、本来ならあり得ないことなのです!」

 声を大にして言うナタリアは胸を張り、自分こそが正しいと信じて疑っていない。
 この主張にどう言い返すのか。息を詰めて成りゆきを見守っていると、ふとフローリアが目を細めて微笑んだ。

「ナタリア様の気持ちはしかと伝わりました。私もイザベル様をお慕いしていますの。つまり、私たちは同志ということですね。……どうでしょう? 私たち、仲良くなれると思うのですが」

 フローリアが前に進み出て、友好の握手を求める。
 その手を見つめていたナタリアは悔しげに頬を引きつらせ、じりじりと後退する。

「きょ、今日はこのぐらいにしてあげますわ! 皆さん、次の授業に遅れるわよ!」

 フローリアの大勝利だ。
 ナタリアたちが逃げるように足早に去っていく。フローリアはその方向を名残惜しげに見つめていたが、やがて踵を返して教室に戻っていく。
 いつもとは違う光景に、思考回路が追いつかない。

「私たちが出て行く前に、決着したみたいね。思ったより肝が据わっているわ、彼女。今度、お茶会に誘ってみようかしら」

 横から楽しげなつぶやきが聞こえてくるが、次の予鈴が鳴ったことで返事をするタイミングを完全に失った。
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