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天野樹はどこにでもいるようなただの男子中学生だ。とは言え、中学生を名乗るには少々頭が弱い。それをアイデンティティとして教室の中で立場を確立しているだけ良しと言えるだろうか。
「樹、話聞いてる?」
高い声が右耳から左耳へと抜け落ちそうになるのを、慌てて右側へ振り返る。そこには訝しげな様子でこちらを睨む少女の姿があった。
「え、あー、なんだっけ?」
「もう、ちゃんと聞いてよ!だーかーら、転校生が来るんだって話!」
その少女、小松陽菜はプリプリと頬を膨らませながらそう言い放つ。
「怒んなって!…え、転校生?」
陽菜の言葉に首を傾げながら、教室の隅を見やる。黒板の隅には4月15日と書かれ、その下に日直の名前が記されていた。
「ね、変だと思うでしょ?普通先週の始業式に来ると思うんだけど」
「てかこんな田舎に転校生とかあるんだな…初めてじゃね?…あ、てか陽菜なんでそんなこと知ってんの?エスパー?」
「馬鹿でしょ、知ってたけど……」
小学校からの幼馴染でもある陽菜は少し呆れたようにしたが、すぐに切り替えて続きを話す。
「それがさ、最近学校近くの空き家に引越し業者が来てて、今日その家からうちの学校の制服着た子が出てきたのをたまたま見た人がいたらしいよ」
「マジ?女?男?」
「気にするところそこなの?女の子だってさ」
そう聞いてふーん、と樹は答えるが、内心はその転校生の容姿がどのようなものか考えるのでいっぱいになっていた。可愛かったらいいなと思ってしまうのは仕方のない事と言える。
「ねぇ、だから気にするのそこじゃないんだって」
陽菜に学ランの端をグイと引っ張られ、その拍子に少し距離が縮まる。昔から変わらないシャンプーの匂いが結われた髪から漂って、少しどきりとする。だが陽菜が自分の最後を見て指を指すので、慌ててその方向へ顔を向けた。
「あそこ、昨日まで何も無かったのに、机一個増えてるでしょ?」
そう言われて気づく。樹がいるクラスは生徒の人数が奇数であり、一番後ろの席が一つ空いているのだ。その空いている空間にポツンと誰もいない机が増えている。
「え、ま、マジだ…!え!てことは…」
「転校生、うちのクラスかも!」
「う、うおー、マジか!転校生マジか!」
陽菜の言葉に思わず大声でそう返すと、始業前の教室で各々に過ごしていたクラスメイトがこちらを見やる。
「樹声でけーよ!」
「何、転校生って言った?」
「あー知ってる。最近引越し業者がこの辺来てたらしい」
「マジ?うちのクラスくんの?」
瞬く間に教室中が転校生の話題でいっぱいになる。その輪の中に入り込み、陽菜からつい先ほど聞いた転校生の性別を男達に言えば一瞬で場が沸きたった。
「顔!顔見ねーことには始まんねーよ!」
「うちのクラスの女子とかほぼ小学校一緒で見飽きてっしなぁ!」
「男子サイテ〜…」
各々が新たに加わる仲間を想像して期待に胸を膨らませる。樹も浮き足立つ気分でいた。当たり前だ、この辺りの地域では一番生徒の多いこの学校と言えど、外から人が来ることなんて早々無いのだから。少なくとも、樹にとって転校生を迎えるのは人生で初めてだ。それが自分の教室に来るというのであれば、尚更気分が上がってしまうものだろう。
ふと、騒がしい教室内に大きなチャイムが鳴り響く。各々が自分の席に着いた頃に、教室の扉がガラリと音を立てて開いた。
「お、珍しく全員座ってんな」
そう言って入ってきた猫背のジャージ姿の男は、先週の始業式からの担任だ。その姿を見て樹は身を乗り出すようにして声を出す。
「イワ先〜!転校生ってマジすか?」
「天野ォおまえ、岩山先生だって言ってんだろ。……なんだお前ら、それで行儀良くしてたのか今日は」
呆れたような顔で岩山は自らの顎を撫でる。綺麗に剃りきれていない髭が気になるのだろう。
「え!やっぱマジなんすか?もう来てる?」
「あーもー、空気とかあるだろ紹介するのに…全く。そうだよ。今廊下に待たせてるから。入ってきていいぞ」
担任のその言葉に一気に教室内がざわめく。予想が確信になり、樹も身を乗り出したまま教室の扉へと釘付けになった。
その扉は、ゆっくりと開かれる。
最初に、華奢な足が教室内へ踏み入った。スラリとした肢体は、黒いセーラー服のおかげかより白く見える。
何よりもこの教室の、いや自分の目を惹きつけたのはその頭だった。
ギザギザとした黒い毛先は襟足まで伸びている。それだけであればボブとも捉えられるがー彼女の右耳にかけられた髪の一房だけが胸元まで伸びている。
その歪な髪を携えて、彼女は整った顔を凛とした表情で真っ直ぐ前へ向けていた。
岩山に促され、彼女は教壇へ足をかけた。
その動作の一つひとつに、目を奪われ、心を奪われる心地になる。
誰もが彼女を見つめる中、彼女だけはどこを見るでもなく、誰と目を合わせるでもなく、ただその黒い瞳を真っ直ぐ前に向けた。
「…佐野、紫苑。よろしくお願いします」