佳麗になりたい
 新入社員の研修を終えた六月の下旬。
 梅雨入りした夕方の空は、小雨だった。
 定時から少し過ぎた頃、麗華は今日の分の仕事を終えると、パソコンの電源を切る。
 パソコンが完全に消えるまで、机に広げていた書類を片付けていると、「和泉〜」と向かいの席から声を掛けられる。

「今日はこれ行ける?」
 ジョッキを傾けるようなジェスチャーと共に声を掛けてきたのは、麗華の先輩である高森(たかもり)であった。
 学生時代は陸上をやっていた事もあり、高森はとても均整のとれた身体つきをしていた。
 今も、社会人によるスポーツチームに所属をしているという事もあって、無駄な脂肪がないほっそりとした身体を維持していた。

「すみません。この後、用事があって……」
「え〜。最近、忙しいよね? 何かあるの?」
 高森は面倒見の良い先輩であり、仕事終わりはよく飲みに誘ってくれた。
 入社したての頃や仕事で失敗した日には、高森と飲みに行っては、よく仕事の愚痴を聞いてもらい、慰めてもらったものだった。

「忙しい訳ではないんですが、今日は用事があって……」
「な〜んだ。彼氏でも出来たのかと思った」
「もう! 彼氏なんていませんよ!」
 高森は体育会系なのか、何ともないように彼氏の話を振ってくる。
 昨今ではハラスメントの問題になりそうだが、そんな事は気にしないらしい。

「じゃあ、私は新人ちゃん達を誘って飲みに行くね。次は和泉も来てね!」
「はい」
 そうして、高森は今年から配属になった新入社員を誘いに行ったのだった。
(いいな。高森さんはああやって、誰とでも打ち解けられて)
 新入社員と話す高森の後ろ姿を、麗華は眩しく思う。

 高森のように、美人でほっそりと痩せているなら、自分も自信を持てるだろうか。
 麗華は自分の身体を見下ろす。

 社会人になって、一人暮らしを始めた。
 仕事で多忙を極めるようになると、まともに食事を取れなくなった。
 職場内での対人関係のストレスも原因かもしれない。
 それもあって、一番太っていた学生の頃より体重は減ったが、まだ完全に痩せたとは言えなかった。

(体重は減ってもなあ……)
 麗華は電源が切れたパソコンを見つめる。
 真っ暗な画面に映っている麗華の肌は荒れていた。
 特にここ数日は、遅くまで残業をして、夕食を食べるのも、日付けが変わる直前であった。
 度重なる不摂生も重なって、昔ほどではないが荒れてしまったのだった。

(ようやく仕事も落ちついたし。しばらくは、この時間に帰れるだろうし)
 麗華が真っ暗になったパソコンの画面を見つめたまま、小さくため息をついていると、コツコツと足音が近づいてきた。

「先輩? どうしましたか? またパソコンの調子でも?」
 麗華が振り向くと、そこには髪型をアップバンクのショートヘアにした男性社員が居たのだった。

桂木(かつらぎ)さん」
 麗華の一年後輩に当たる桂木だが、年齢は麗華と同い年であった。
 元々はIT系の会社に勤めていたらしいが、度重なる上司からのパワーハラスメントとブラックな労働環境に身体を壊して、昨年から麗華と同じ会社で働いていた。

「ううん。今日は大丈夫です」
 IT系で働いていた事もあって、桂木はパソコンにとても詳しかった。
 パソコンが苦手な麗華は、パソコンが動かなくなる度に、こっそり桂木に聞いていたのだった。
「そうですか? それならいいんですか……」
 今日は湿気が多く、気温が高いからか、桂木はジャケットを脱いでいた。
 第一ボタンが開けられた白色のシャツと、適度に緩められた黒色と深緑色のストライプのネクタイから、爽やかさを感じたのだった。

「先輩はもう退勤されますか?」
「はい……。桂木さんは?」
「俺はまだ仕事が残っているので……」
 桂木は目を逸らした。
 桂木はパソコンは得意だが、意外にも書類仕事は苦手なようだった。
 今も明日の会議に備えて、会議資料の印刷や用意に奮闘していた。
「よければ、お手伝いしましょうか?」
「いいえ。あと少しで終わるので、先輩は先に退勤して下さい」
 麗華が桂木にパソコンを見てもらっているように、桂木も麗華に書類仕事を手伝ってもらっていた。
 それを桂木は気にしているのだろう。

「そうですか? それならいいんですが……。もし、時間が掛かりそうなら遠慮なく声をかけて下さい」
「ありがとうございます。先輩」
 同い年の桂木に「先輩」と呼ばれて、麗華はこそばゆい気持ちになる。
 麗華は「先輩」と呼ばなくていいと言っているのだが、桂木を指導した高森の影響なのか、桂木は麗華達を「先輩」と呼び続けていたのだった。

「それでは、お先に失礼します」
 麗華は荷物をまとめると立ち上がる。
「お疲れ様でした。先輩」
「お疲れ様でした」

 桂木は一礼すると、自分の席に戻って行った。桂木は麗華の右斜め後ろの席なので、ここからでも桂木の様子が見れた。
 桂木は席に戻ると、すぐに印刷した会議資料をステープラーで留め始めた。
 麗華は小さく微笑むと、部屋を後にしたのだった。

「和泉様ですね。お待ちしていました」
 仕事が終わると、麗華はその足でエステティックサロンにやって来ていた。
 麗華が受付で名前を言うと、受付は予約票を確認した。
「担当は前回と一緒ですね。今、呼んできます」

 担当を呼びに行っている間、入り口近くのソファーに座っているように言われた。
 ソファーに座ると、麗華は近くにあったマガジンラックから女性向けの雑誌を取り出して、パラパラと読んだ。

 最近、麗華が高森の飲み会に行かない理由の一つに、自分磨きに力を入れているというのがあった。
 麗華は一週間の内、週一日はエステティックサロンに、それ以外にも週三日はフィットネスクラブに通っていた。
 それ以外でも、化粧品やスキンケアにこだわってみたり、髪型や服装にも力を入れてみたりした。

 もう、名前負けしているとは、言われたくなかった。
 麗華って名前だけで、綺麗な人や可愛い人を勝手に想像されてきた。実際に会うと、必ずと言っていい程に、相手に幻滅され続けてきたのだった。

(私もこうなりたいな……)
 雑誌の中のモデル達は、いつもキラキラして、眩しくて、自分とは違う世界に住んでいるように思えた。
 自分はモデル達のように、胸を張って堂々とは出来ない。
 そもそも、自分に自信がなかった。

 大学生までの麗華は、肌の手入れや化粧もまともにしておらず、顔はニキビだらけ。服装や髪型にも特にこだわっていなかった。
 また、体型も太り気味で、とても綺麗とは言い難かった。

 名前が「麗華」というのもあって、周囲から「似合わない」と、面と向かって言われた事もあれば、陰で言われた事もあった。
 その度に、麗華は傷ついて、泣き寝入りをした日もあった。
 今ではすっかり慣れてしまったが。

 さすがに、社会人になったら面と向かって言われなくなったが、それでも綺麗な同性や異性の前では尻込みしてしまう。
 そんなある時、麗華は考えた。

 ーーこのまま、名前負けしたまま、ずっと生涯過ごすのかな。

「麗華」という名前に、負けたままでいいのかな。
 そう考えていたら、だんだんと悔しくなってきた。

 ーー変わってやる。名前に相応しい女性に変わってやる!
 決意した麗華は、仕事の合間に自分磨きに力を入れる事にしたのだった。

「和泉様。お待たせしました。担当の明石(あかいし)です。今回もよろしくお願いします」
 雑誌を読んでいると、麗華を担当するエステティシャン明石がやってきた。
 麗華は立ち上がると、読んでいた雑誌をマガジンラックに戻した。
 持っていた鞄を受付に預けると、明石について店の奥に行ったのだった。

「和泉様、ご指名頂きありがとうございます」
 麗華が部屋に案内されると、明石は一礼した。
「今回もよろしくお願いします」
 以前、このエステティックサロンを利用した時、たまたまいつも担当をお願いしていた人が休みだった。
 代わりに担当してもらったのが、この明石であった。
 それ以来、麗華は明石に担当をお願いしていたのだった。

 年齢は麗華と同じくらいだろうか。
 茶色に染めた髪を頭の後ろで一つまとめ、適度に化粧もしていた。
 施術中の雑談も楽しく、肌の手入れや新商品の化粧品の情報、それ以外の話題もたくさん持っていた。
 とても大人っぽくて、麗華は密かに明石に憧れていたのだった。

 麗華が病院にある様なベッドの上で横になると、明石は麗華の服が汚れないようにタオルケットをかけてくれた。
「では、最初に化粧を落としますね。それから、お肌の調子を見ていきます」
 そう言って、明石は麗華の化粧を落としていく。
 明石の温かい指先が顔に触れて、くすぐったかった。

「前よりお肌がよくなっていますね」
「良かったです」
「でも、まだ荒れていますね。もう少し、手入れを頑張るといいかもしれません」
「は〜い……」

 これまで、麗華は仕事が忙しい事や疲れている事を言い訳にして、肌の手入れを怠っていた。
 それもあって、最初にここに来た時、麗華の肌はボロボロだった。
 明石によると、麗華の肌はしっかり手入れがされていなかったので、ニキビが出やすくなっていたらしい。
 ここで肌の手入れについて教えてもらって、ニキビが出にくくなって、少しずつ改善されてきたのだった。

 いつもと同じように雑談を挟みつつ、明石に手入れをしてもらっていると、時間はあっという間に過ぎていった。
 最後に、忙しくても簡単に出来る肌の手入れについて二人が話していた時だった。

「和泉さん、間違えていたらすみません」
「はい?」
「最近、綺麗になりましたよね? 前回よりもますます綺麗になって……。何かきっかけがありましたか?」
「きっかけなんて、何も……」
「例えば、好きな人が出来たとか」
「す、好きな人……!?」

 不意に、麗華の頭の中を、会社の後輩である桂木の姿が過ぎった。
 それを打ち消すように、麗華は「いません!」と、明石の言葉を否定したのだった。
「そうですか? てっきり、好きな人が出来たのかと思っていました」
「違いますよ〜」
「失礼しました」と謝る明石に、「気にしないで下さい」と麗華は返したのだった。

「そんな明石さんは、好きな人がいたりするんですか?」
「私は今年の始めに結婚したんです」
 仕事中は邪魔になるからしていないが、普段は結婚指輪をしているらしい。

「わあ、素敵です! 相手の方はどんな人なんですか?」
「そうですね……。趣味や好みが私と合っていて。性格は大雑把で、でも優しい人なんです」

 明石によると、エステティシャンの専門学校に通っていた頃から付き合っており、専門学校を卒業して、数年経ったのを機に結婚したが、今ではすっかり気心の知れた仲らしい。

(こんな美人な明石さんと付き合っているって事は、イケメンな旦那さんなのかな……)
 少しだけ羨ましいと、麗華は思った。
 明石の様に、いつの日か麗華も素敵な人と結婚出来るように、もっと綺麗になりたいと決意したのだった。
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