辺境の貧乏伯爵に嫁ぐことになったので領地改革に励みます
未来に向かって
王都へ
初めてアンジェリクに麦の穂を見せてくれた時、父は言った。
『アンジェリク、これは宝石よりもずっと価値のあるものなんだよ』
小さかったアンジェリクには、その時はまだ、よくわからなかった。
きらきらした母の髪飾りのほうがいいもののように思えた。
『こうして立派な麦に育つまでには、たくさんの手間がかかっている。たくさんの汗が流されている。苦労して作ってくれたものだ。尊い食料だ。人は食べなくては生きていけない。命をつなぐのは、この小さな麦穂なんだよ』
そんな言葉から父の領主教育は始まった。
広大な公爵領の、全ての民の暮らしを守るために、学ばなけれなならないことは多かった。
どんな時も、父はアンジェリクの疑問を大事にした。
なぜ、と聞くたびに、その理由を教えてくれたり、時には自分で考えるように促したりしながら、領主として人々のために働けよう導いてくれた。
全部、父から教わったのだ。全部……。
ガタガタと震える身体を無理に押さえ、アンジェリクは顔を上げた。
行かなくては……。
叔父のダニオに公爵家の権限を渡してはいけない。
小さな領地さえ満足に治められず、領民を苦しめている叔父に、アンジェリクの民を渡してはいけない。
自分の民だ。自分が守るはずだった民なのだ。
今はブールの領主セルジュ・ボルテールの妻だが、それがモンタン公爵領の人々を見捨てる理由にはならない。
フランシーヌとクロードが立派な領主に育つまで、アンジェリクが公爵領を守らなくては……。
「馬車を……」
「いけません、奥様!」
「セロー夫人……、支度を手伝って」
「嫌です」
嫌です、と繰り返してセロー夫人は顔を伏せた。
涙がぱたぱた床に落ちる。もう一度、嫌ですと繰り返した声は涙で聞き取れなかった。
「ポリーヌ」
ビクリと震えた幼い少女を不憫に思う。
こんなことを頼むのは酷だ。それでも……。
「アンジェリク、その身体でブールの街道を馬車で走るのは、無理だ」
「セルジュ……」
「ラッセに飛んでもらおう」
「だめよ」
ラッセは今、サリと交代で卵を抱いている。
「ラッセがどんなに速く飛べても、王都まで行ってすぐに帰れるかはわからないのよ。その間、サリはどうなるの? サリが疲れてしまったら、卵はどうなるの?」
「ラッセなら、一日あれば王都まで往復できる。きみを送り届けた後、ラッセはすぐに帰らせる」
自分で帰れる。朝から夕方までだ、とセルジュは言った。
ラッセにとっては疲労もそこまで大きくないはずだと。
それでも、万が一ラッセが戻れなかったらと思うと、不安だった。
「ラッセと……、サリに会ってから、決めさせて」
ドラゴン厩舎に行くと、何かを察知したかのようにラッセが立ち上がっていた。
卵はサリが抱いている。その近くにはブランカがいた。
「ラッセ、王都まで飛んでほしい」
セルジュが言うと、ラッセはグルルと鼻を鳴らした。
「サリ、一人で大丈夫か?」
「卵……、抱いていられる?」
セルジュとアンジェリクの言葉がわかるかのように、サリが頭を上下に動かした。
ブランカがサリのお腹を鼻でつついた。
サリがゆっくり卵からどいて、ブランカと替わる。
「昨日から、たまにこうやってサリの真似をしたがるんです。なかなか役に立ってるようですよ」
エサの肉を運んできたエリクが笑って言った。エリクたちは、まだフクロウ便のことを知らない。
「エリク、これから王都までラッセで飛ぶ。サリと卵を頼めるな」
「何かありましたか」
「アンジェリクが、王都に急用だ。ラッセは先に帰すつもりだが、僕とアンジェリクはしばらく戻れない。詳しいことはエミールに聞いてくれ」
着替えてくるので鞍の準備を頼むと行って厩舎を出る。
「ブランカが役に立つそうだ。アンジェリク、ラッセで行っていいね?」
「ええ」
ドラゴンに乗るのは初めてだ。
正直、少し怖いけれど、悪路を馬車で行くより、身重のアンジェリクにははるかに安全であることはわかる。
それに、セルジュと一緒だから大丈夫だ。
ドラゴンで王都に飛ぶと聞いたセロー夫人は、まだいやいやをしていたが、ポリーヌが進んで支度を手伝ってくれた。
乗馬服の上にセルジュのライディングコートを着込み、毛布を重ねて厩舎に向かった。
お願い、とラッセの背を叩いて鞍の上に乗った。
セルジュに抱かれる形で場所を整え、革紐で各所を固定する。
アンジェリクのために姿勢を低くしていたラッセが立ち上がる。
高い。
厩舎を出ると、すぐにラッセは翼を広げた。
気づいた時には空の高みにいた。
冷気が頬を打つ。
セルジュとともに、アンジェリクは一路王都へと向かった。
『アンジェリク、これは宝石よりもずっと価値のあるものなんだよ』
小さかったアンジェリクには、その時はまだ、よくわからなかった。
きらきらした母の髪飾りのほうがいいもののように思えた。
『こうして立派な麦に育つまでには、たくさんの手間がかかっている。たくさんの汗が流されている。苦労して作ってくれたものだ。尊い食料だ。人は食べなくては生きていけない。命をつなぐのは、この小さな麦穂なんだよ』
そんな言葉から父の領主教育は始まった。
広大な公爵領の、全ての民の暮らしを守るために、学ばなけれなならないことは多かった。
どんな時も、父はアンジェリクの疑問を大事にした。
なぜ、と聞くたびに、その理由を教えてくれたり、時には自分で考えるように促したりしながら、領主として人々のために働けよう導いてくれた。
全部、父から教わったのだ。全部……。
ガタガタと震える身体を無理に押さえ、アンジェリクは顔を上げた。
行かなくては……。
叔父のダニオに公爵家の権限を渡してはいけない。
小さな領地さえ満足に治められず、領民を苦しめている叔父に、アンジェリクの民を渡してはいけない。
自分の民だ。自分が守るはずだった民なのだ。
今はブールの領主セルジュ・ボルテールの妻だが、それがモンタン公爵領の人々を見捨てる理由にはならない。
フランシーヌとクロードが立派な領主に育つまで、アンジェリクが公爵領を守らなくては……。
「馬車を……」
「いけません、奥様!」
「セロー夫人……、支度を手伝って」
「嫌です」
嫌です、と繰り返してセロー夫人は顔を伏せた。
涙がぱたぱた床に落ちる。もう一度、嫌ですと繰り返した声は涙で聞き取れなかった。
「ポリーヌ」
ビクリと震えた幼い少女を不憫に思う。
こんなことを頼むのは酷だ。それでも……。
「アンジェリク、その身体でブールの街道を馬車で走るのは、無理だ」
「セルジュ……」
「ラッセに飛んでもらおう」
「だめよ」
ラッセは今、サリと交代で卵を抱いている。
「ラッセがどんなに速く飛べても、王都まで行ってすぐに帰れるかはわからないのよ。その間、サリはどうなるの? サリが疲れてしまったら、卵はどうなるの?」
「ラッセなら、一日あれば王都まで往復できる。きみを送り届けた後、ラッセはすぐに帰らせる」
自分で帰れる。朝から夕方までだ、とセルジュは言った。
ラッセにとっては疲労もそこまで大きくないはずだと。
それでも、万が一ラッセが戻れなかったらと思うと、不安だった。
「ラッセと……、サリに会ってから、決めさせて」
ドラゴン厩舎に行くと、何かを察知したかのようにラッセが立ち上がっていた。
卵はサリが抱いている。その近くにはブランカがいた。
「ラッセ、王都まで飛んでほしい」
セルジュが言うと、ラッセはグルルと鼻を鳴らした。
「サリ、一人で大丈夫か?」
「卵……、抱いていられる?」
セルジュとアンジェリクの言葉がわかるかのように、サリが頭を上下に動かした。
ブランカがサリのお腹を鼻でつついた。
サリがゆっくり卵からどいて、ブランカと替わる。
「昨日から、たまにこうやってサリの真似をしたがるんです。なかなか役に立ってるようですよ」
エサの肉を運んできたエリクが笑って言った。エリクたちは、まだフクロウ便のことを知らない。
「エリク、これから王都までラッセで飛ぶ。サリと卵を頼めるな」
「何かありましたか」
「アンジェリクが、王都に急用だ。ラッセは先に帰すつもりだが、僕とアンジェリクはしばらく戻れない。詳しいことはエミールに聞いてくれ」
着替えてくるので鞍の準備を頼むと行って厩舎を出る。
「ブランカが役に立つそうだ。アンジェリク、ラッセで行っていいね?」
「ええ」
ドラゴンに乗るのは初めてだ。
正直、少し怖いけれど、悪路を馬車で行くより、身重のアンジェリクにははるかに安全であることはわかる。
それに、セルジュと一緒だから大丈夫だ。
ドラゴンで王都に飛ぶと聞いたセロー夫人は、まだいやいやをしていたが、ポリーヌが進んで支度を手伝ってくれた。
乗馬服の上にセルジュのライディングコートを着込み、毛布を重ねて厩舎に向かった。
お願い、とラッセの背を叩いて鞍の上に乗った。
セルジュに抱かれる形で場所を整え、革紐で各所を固定する。
アンジェリクのために姿勢を低くしていたラッセが立ち上がる。
高い。
厩舎を出ると、すぐにラッセは翼を広げた。
気づいた時には空の高みにいた。
冷気が頬を打つ。
セルジュとともに、アンジェリクは一路王都へと向かった。