辺境の貧乏伯爵に嫁ぐことになったので領地改革に励みます

コルラード卿

「お父様……!」

 モンタン公爵家の敷地に降り立つと、ドラゴンを見た侍女たちが悲鳴を上げる中、アンジェリクは城の中に駆け込んだ。

「お嬢様!」
「フレデリク、お父様は?」
「幸い、峠は越えました。もう大丈夫だと、さっきお医者様が……」
「本当に?」

 はい、と隈の浮いた顔でフレデリクが頷く。
 ほっとしたら、膝から崩れ落ちて厚い絨毯の上にしゃがみこんでしまった。
 後から走り込んできたセルジュを見上げ「大丈夫ですって……」と言ったら涙が出た。

「よかった……」

 ほっと息を吐いたセルジュに支えられて立ち上がる。
 フレデリクが怪訝な顔で聞いた。

「あの……、お嬢様、ここまでどのように?」
「ドラゴンに乗ってきたの」
「ドラゴン……ですか?」

 ラッセはすぐにブールに戻ってしまったので、フレデリクに見せることはできなかった。

「お父様に会える?」
「お医者様がお部屋にいます。直接お聞きになってください」
「そうするわ。……フレデリク、あなた少し休んだほうがいいわ。何かあったら声をかけるから」

 セルジュと一緒に父の私室に向かった。

「お姉様!」

 寝室の手前の居間にマリーヌとフランシーヌがいた。
 セルジュを見ると、目をぱちくりさせて、揃ってポッと頬を染める。

 気づけば、壁際に控えている侍女たちもアンジェリクの夫をチラチラと盗み見ていた。

(そうだった。この人、顔がいいんだった……)

 本人は何も気づいていないようで、真剣な顔で寝室のほうを見ている。

 妹たちや侍女たちの様子から、どうやら本当に峠を越えたらしいとほっと胸を撫でおろした。医者の許可も下りて、そっと部屋に入る。
 
 その日は眠る父の顔を見ただけで、新居になるはずだった離れに下がった。

 翌日になると、少し話をしても構わないと医者から許可が出た。

「ボルテール伯爵……」
「お初にお目にかかります」

 ベッドに寝たまま父が右手を差し出した。

「アンジェリクは、ちゃんとやっていますか?」
「これ以上ないくらいに。公爵から学んだことを元に、領民のために尽くしてくれています」

 コルラード卿は満足そうに微笑んだ。
 アンジェリクの体調を気遣い、ここまでの移動はどうしたのかと聞いた。ドラゴンで来たというと、よくわからないという顔をした。

「私が油断したばかりに、無理をさせたな」
「いいえ。お父様、犯人はつかまったの?」
「ああ。その場で、すぐにな。アギヨン牢獄に入っているはずだ」

 物取り目的だろうと父は言ったが、アンジェリクは首を傾げた。
 医者からは、馬車を下りたところを一突きされたと聞いた。脇腹を深く刺されていて、出血がひどく、一次は意識不明の重体だった。
 持ち直したのは本人の体力のおかげだと言っていた。

「物取り目的の人が、そんなにタイミングよく刺せるかしら?」
「ん?」

「はじめから、お父様の命を狙ってたんじゃないの……?」
「なぜ、そう思う?」
「だって、よほど隙を突かれたんじゃなきゃ、お父様がこんな深手を負うことはないわ」

 宝剣やカフス、指輪など、常に宝石を身に着けている貴族は物取りの標的になりやすい。狙われるとわかっていて対策をしないのは愚かだと言って、父は多少の護身術を身に着けている。
 油断していて鞄やステッキを盗られることはあっても、刺されると思った瞬間、大けがを避けるように勝手に身体が動くくらいには鍛錬している。
 ふつうなら女子には受けさせないその手の訓練を、アンジェリクやマリーヌ、フランシーヌにさえ受けさせてきた。そのくらい用心深い父だ。

「お父様を、ただの物取りが勢いで刺して、偶然、命にまで係わるほどの深手を負わせたなんて、信じるほうがおかしいわ」
「アンジェリク……」

「犯人に会いに行かなきゃ」
「会いに行ってどうする?」
「聞くのよ。誰に頼まれたのかって」
「なんだって?」

 ベッドの上から驚いたように、父がアンジェリクを見た。

「刺したのは、たぶんプロよ。よく、その場で捕まえたわね」

 父は、フレデリクが一緒だったと言った。
 いつもは城にいるフレデリクが、その日はたまたま銀行に用事があり、馬車に同乗していた。御者だけだったら逃げられていただろう続ける。

「それは、とてもラッキーだったわ。フレデリクに特別手当をはずんであげて。たっぷりとね」

 大変なお手柄だ、とアンジェリクは心の中で呟いた。

 父の無事を確かめて安堵してから、アンジェリクの頭脳は少しずつ本来の働きを取り戻していた。
 ぼんやりとした輪郭しか浮かんでいなかったものに、明確な形が見えてくる。

 真犯人はほかにいる。

 必ずその人物を突き止めるのだと、心で誓った。
 そう、必ず……。

(絶対に、許さないから……)

 アンジェリクは怒っていた。
 ずっと、怒っていた。
 本気で怒ると、いつも以上に平静になる。表面上はほとんど変わらないように見えて、腹の底でメラメラと怒りの炎を燃やすのだ。

 本気で怒ったアンジェリクの恐ろしさを知った者は、二度と彼女の前に顔を出せなくなる。
 うっかり道で出くわそうものなら、蛇に睨まれたカエルのように身動き一つできずに嫌な汗をかくしかなくなるのだ。
 それは、一生忘れることのできない凄まじいものだ。

 滅多に怒らない彼女を怒らせたらどうなるか。
 
 優しさや慈愛に満ちた人間は、同じ振り幅で残酷になれる。
 そういう人間は、人の心の一番深い場所にあるものを知っているからだ。

 真犯人の破滅の時は、刻々と迫っている。
 もう逃げることはできない。
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