朝戸風に、きらきら 4/4 番外編追加

 


先ほどまで共に食卓を囲んでいたダイニングテーブルは、あの男が仕事を始めれば、私がアシスタントとして作業するデスクに変わる。



那津(なつ) 依織(いおり)


大手の広告代理店にてグラフィックデザイナーとして活躍していた彼のことは、その業界にいればきっと誰でも名前を聞いたことがある。



だから。

急に数年間勤めてきたその大きな会社を辞め、フリーランスになった出来事も、業界内では話題になった筈だ。



「…もうすぐ2ヶ月、か。」

壁にかかったセンスの良いファブリックカレンダーを眺めながら、ぽつりと呟いた言葉が寂しく落ちていく。


意図せず湧き上がる感情の全てを振り切るように、朝食中の予告通り、投げられた仕事に取り掛かっていた。


何一つ、難しいものは無い。

顧客情報や案件のデータをまとめるだとか、経理に関する雑務だとか、さっきのような郵便物の送付だとか。

本当に、誰でもできる業務だ。
 
 


「分かりました、明日の10時ですね。
大丈夫です、伺います。」

別のクライアントから急にアポイントを頼まれたのか、聞こえてきた予定を確かめる電話の声には疲労が滲んでいる。



私が居るダイニングと、すぐ側の仕事部屋を隔てるドアは閉めなくて良い、とあの男はいつも言う。


「部下が仕事をサボっていないか見張るため」と笑うけど、本心がそうではないと流石の私も分かっている。




チラリ視線を向ければ、忙しそうにPCを見つめている背中に、胸の奥を鷲掴みされたような痛みを毎日、馬鹿みたいに感じてしまう。


猫っ毛で触り心地の良さそうな茶色の髪に、後ろからじゃないと分からない寝癖を見つける度。
手を伸ばしたくなる衝動を抑えるのに必死だと、あの男はきっと知らない。 



今の電話も含め、結局クライアントの無茶な要求を飲んで、仕事を抱えるところは前から何も変わらない。

勢いをつけて先程私が淹れたコーヒーを流し込んでしまったのか、「あっつ。」と、ぼやく声が微かに聞こえてきた。

もう少し冷ましてから持っていくべきだっただろうか。

だけど、どんな温度のコーヒーだったとしても、
あの男はきっと、私に直接、文句は言わない。


それを感じると、ふ、と口角が緩んで、糸を張った心まで解けそうになるのを必死に耐えた。



「……お人好し。」


そんな男に、仕事以外に
“面倒ごと“を抱えさせてしまっている。
  

お人好しなあの男に甘えている女が、
滑稽に、無意味に、今日も存在している。



_____ここは穏やかで優しい、"虚構の"、箱庭。
 
決別は、きっと必ず、私から。

告げなければならないと痛いほどに分かっている。


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