お願い、あと少しだけ
「紺野くん、私は基本的に残業はしないから。部下にもさせない主義。合理的に仕事をしていれば、就業時間のうちに仕事を終えられる。そうでしょ?」

赤ぶち眼鏡の中の瞳は真剣だ。期待に応えなければいけない。

「休日出勤も、基本なしですか?」

期待を込めて、尋ねる。平日の仕事は密度が濃そうだが、もし休日出勤がなければ、奈緒子を早く招べる。

「もちろんよ。その代わり、普段はだれることなく働いてもらう。きっとあなたは、充実感に満ちるはずよ」

「がんばります」

「さっそくだけど、今、この研究データをもとに我が社の新製品を開発しているの。部員のアイディアを少し整理してもらえるかしら?」

「分かりました」

よしっ!気合いを入れてやれば、奈緒子と会う時間も十分確保できそうだ。尚子に言ったら、きっと喜ぶぞ。

いっぽう、奈緒子はその朝、少し緊張していた。部長に相談してみよう、異動願のこと。婚約者が大阪にいるから、なんて理由で出していいものか。田園都市線に揺られながら、奈緒子は不安だった。弘樹は、あんなに簡単に、異動願を出してみれば、なんて言ったけれど。

山手線に乗り換えて新宿へ。朝の山手線は殺人的な混雑だ。やっとのことで新宿で降りて、会社に向かう。

思いがけず、エレベーターホールで、奈緒子の働く総務部の佐川亮吾部長に鉢合わせた。佐川部長は、もう60代だが清潔感のある素敵なオジサマで女性社員にも人気がある。

「おはようございます、佐川部長」

「あぁ、おはよう。早いな、岡崎くん」

「はい・・・あの、始業前に、少しだけ相談に乗っていただけますか?」

佐川部長は、少し驚いた顔をした。

「どうしたんだ?悩み事か?」

「いえ…そうじゃないんですが」

「上に上がったら、私のデスクに来なさい」

「はい」

エレベーターの中、自分のドキドキが佐川部長に聞こえないかひやひやものの奈緒子だった。6階で2人は降り、お互い一度ロッカールームに向かった。

ふぅ・・・どんなふうに切り出そうかな。

緊張した面持ちで、奈緒子は佐川部長の席に向かった。

「先ほどの話ですが」

「ああ」

「私・・・大阪に異動することは可能でしょうか?」

ごほごほごほ・・・。突然の奈緒子の申し出に、むせてしまった佐川部長だった。

「何でまた」

「婚約者が・・・東京本社から大阪支店に栄転になったんです」

「開発部の、紺野くんか」

「よく、ご存じで」

奈緒子は軽く驚いていた。

「最近、大阪に言ったやつと言えばな。婚約していたとは、知らなかった」

「ごく最近、婚約しまして」

会社で噂になったりしていなかったから、不思議に思うのは当然だろう。

「そうか。で、彼のもとに行きたい、と」

「はい」

「大阪の総務部に、ニーズあるかなぁ。とりあえず、ちょっと探り入れてみるよ」

奈緒子にウィンクをして言う部長。こういう仕草がまだ似合うんだから、若いころはさぞかしモテたことだろう。
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