お見合い結婚します――悔いなく今を生きるために!
第30話 新婚旅行に出かけた!
夏が終わったばかりの箱根はまた違った顔を見せていた。高度が高くなると、涼しくなってくるのが分かる。日差しも真夏のころとは明らかに弱くなっている。

ホテルには4時半過ぎに着いた。受付カウンターには僕が行って部屋の確認をしてチェックインした。部屋は5年前と同じ部屋のレイクサイトのスイートを予約してあった。

ロビーの様子はあのころとは絨毯とソファーの配置が変わっていた。ソファーの菜々恵のところへ行くと彼女も同じことを言った。部屋はどうなっているのだろう。あの時と同じだろうか?

ボーイさんが部屋へ案内してくれる。あの時と同じだ。あの時僕は部屋に入ったらどうしようかと考えていた。今はもうゆとりがある。

ボーイさんが部屋の説明をして出て行った。部屋の作りは同じだったが、内装が変わっていた。あのころより座り心地の良さそうなソファーが目に入る。

部屋を見ている菜々恵を後ろから抱き締めた。あの時もそうした。菜々恵もあの時のことを思い出したに違いない。僕の手を握った。僕は菜々恵を抱きかかえてソファーに運んで横たえた。

「ゆっくり休んでほしい。今日は疲れただろう」

菜々恵は恨めしそうに僕を見た。あの時はすぐに寝室へ運んで僕のものにした。それを期待していた? 

「ゆっくり落ち着いて君を愛してあげたい」

「そういえば、言おうと思っていたことがあるの。もう私のことを君と言わないで名前で呼んでくれないかな」

「菜々恵と呼び捨てにするのか?」

「もう結婚したのだから、その方が私はいい。結婚してあなたのものになったという感じがするから」

「正直に言うと今でも僕は君に気後れするときがある」

「どんなとき?」

「君の横顔を見ているとき、綺麗で眩しいなと」

「それならなおさら菜々恵と呼んで下さい」

「分かった。それなら僕のこともあなたと呼ばないで聡と呼んでくれ」

「あなたを呼び捨てになんかできないわ。尊敬しているから」

「尊敬?」

「慕っているという方がいいかもしれません。だから、あなたのままにさせてください」

「慕われている? まあ君の好きなようにしてくれれば僕はそれでいい」

「ほら、また、君と言った」

「分かったよ、菜々恵」

本当は菜々恵と呼びたかった自分がいた。初めて同じクラスになった時、『菜々恵』呼びやすい良い名前だ、そう思った。

食事はその時と同じビュッフェをしていると言うので、予約しておいた。5時から食べられると言うので、ゆっくり休んでから、出かけることにした。時間までソファーで身体を寄せ合って休んだ。

レストランはまだ人が少なかった。あの時と同じだ。菜々恵はやはり窓際の同じ席を見つけて座った。

「同じ席が空いていて良かった。あの時はHしたすぐ後だったから、なんとも言えない高揚した幸せな気持ちで座っていたわ」

「随分落ち着いて座っていたように見えたけど」

「あなたを目の前にして余韻に浸って食事をしていた。何を食べているのか分からなかった。でもデザートだけ覚えている」

「ケーキを別腹だと言って3個も食べていたね」

「変なことを覚えているのね」

「さあ、今日は何を食べようか。好みのものを選んでシェアしよう」

テーブルに料理を盛りつけたお皿が並んだ。それを二人は思い思いに食べていく。僕はあの時と同じで好きなものを食べ過ぎてお腹がいっぱいになった。

菜々恵はやっぱりデザートは別腹といって、ケーキを3個も食べていた。お腹が落ち着いたころで、湖畔を散歩しようということになった。

湖畔の景色は変わっていない。ただ、9月でもお彼岸の前だ。日が落ちたところでまだ辺りは明るい。肌寒いと言うこともなく心地よい気温だ。

湖面を見ている菜々恵を後ろから抱き締めて、こちらを向かせてキスをする。菜々恵がしがみついて来る。あの時と同じケーキの甘い味がした。

ずっと抱き合って湖畔を眺めていたが、周りが暗くなってきたので、部屋に戻ることにした。戻る途中に一緒にお風呂に入ろうと誘った。菜々恵はすぐには答えなかった。部屋にも戻るともう一度お風呂に誘った。

「手術の跡を見せたくないの?」

「そんなことないけど」

「じゃあどうして、このまま僕には見せないの?」

「先に入っていてください」

菜々恵は一緒に入ることを受け入れた。そんなに気にするほどの跡なのか? 見れば分かる。

僕が湯船に浸かっていると、菜々恵が手ぬぐいで前を隠して入ってきた。そして、掛湯をすると僕のそばに浸かった。菜々恵は黙って浸かっている。

「気にしなくていいから」

「私は気にします。私の負い目ですから」

「まだ、そんなことを言っている。温まったら上がろう、先に僕が洗ってあげる」

菜々恵を座らせて、背中から洗い始める。こうして菜々恵の裸の背中を見るのはあの時以来だ。あの時よりふくよかになっているように思った。体調が良くなっている証拠だ。

背中が終わると立たせて、お尻、脚を洗ってゆく。そしてこちらを向かせる。首、乳房、お腹の順に洗っていく。

お腹にカギ型の手術跡があった。もう5年もたっているので、傷跡はあまり目立たなかった。

「そんなに気にするほどの跡じゃないよ」

僕はそう言って、そこをそっとなぞって洗い、大事なところ、脚、足首と洗っていった。洗い終えると「ありがとう」と菜々恵が言った。それから僕を洗ってくれた。

その後、菜々恵は髪を洗っていた。僕はまた湯船に浸かっていた。いいお湯だ。もうすっかり暗くなって、湖面に湖畔の道路の街灯や建物の明かりが映っている。髪を洗い終えた菜々恵が入ってきた。

「思っていたほどじゃなかった。それにもう薄くなっている。気にすることなんか少しもない」

「傷を見るとあの頃を思い出して、だから見ないようにしています」

「そのうち傷跡なんか分からなくなる。そして手術のことも忘れてしまう」

「そうだといいけど」

もう上がろうと言うので、僕は髪を洗ってから上がるからと先に上がってもらった。

僕が上がると、ソファーにいると思った菜々恵がいなかった。姿が見えないと不安になる。「菜々恵」と呼ぶと寝室から「ここにいます」と返事があった。

浴衣姿の菜々恵がベッドに座っていた。そして水のボトルを僕に手渡してくれた。僕が喉を潤して菜々恵を見ると、座り直して「不束者ですがよろしくお願いします」と頭を下げた。

「菜々恵と呼んでくれましたね」

「そう言ったっけ。それより、おしとやかで君らしくないね。でもそう言ってくれて嬉しい。古風な感じがしてとってもいいね。こちらこそよろしく」

そう言うより早いか、菜々恵が抱きついてきた。こっちの方がやはり菜々恵らしい。浴衣の下は何もつけていなかった。もう僕に傷跡を見られたからだろうか?

ゆっくりキスを交わす。それから僕は薄明りの中で傷跡を手で確かめた。一瞬身体をそらして嫌がる様子を見せたがあきらめたのか、なすがままになった。

傷跡を間近に見た。もう筋のようにしか見えない。僕はその傷跡が愛おしくなって思わずなぞってなめてしまった。菜々恵がピクンと反応した。「ダメ」というのが聞こえた。

かまわずになぞってなめた。その傷を癒すように、ゆっくりと何回も何回も。そのたびにピクンピクンと反応した。すすり泣く声が聞こえてきた。菜々恵の手が僕の頭を撫でている。すすり泣く声が快感の声にいつしか変わっていった。

◆ ◆ ◆
菜々恵は僕の右腕を枕にして抱かれている。

「傷跡をなめてもらってありがとう。あんなに感じるなんて思ってもみなかった。とても気持ちよくなって頭が真っ白になったみたい」

「引け目に思っていたところが、性感帯になった?」

「自分が思っている以上にそうされて嬉しかったからだと思う。それになめられて驚いて恥ずかしくて嬉しくて気持ち良くて」

「セックスが免疫能を上げるということがどこかに書いてあった。もしそうなら、僕に今できることは菜々恵をできるかぎり可愛がって免疫能が上がるようにすることだ」

「お願いします」

そう言って、また、菜々恵が抱きついて来た。

◆ ◆ ◆
明け方、菜々恵が僕に覆いかぶさってきた。昨晩はぐったりするほど可愛がってやったが、一眠りしてもうすっかり回復したみたいだ。これなら心配ない。あのおしとやかで古風な菜々恵はもうどこにもいない。好きなようにさせるだけだ。

再び目が覚めたら、菜々恵はすっかり身繕いを終えていた。もうお風呂にも入って化粧もしていた。僕には明け方の頑張りが効いて心地よい疲労が残っている。

「お腹が空いた。早く朝食を食べに行きましょう」

「分かった。でもゆっくり朝風呂に浸かりたい」

そういって、僕は朝のお風呂に入った。何回入ってもここの温泉は最高だ。疲れがとれる。

「まだー?」

菜々恵がドアを開けて覗きこむ。

「すぐに上がるから」

シャワーを浴びてあがると、すかさず菜々恵がバスタオルで身体を拭いてくれる。頭も丁寧に拭いてくれる。侍女が殿の身体を拭いてくれているみたいで悪くない。よっぽどお腹が空いているみたいだ。

菜々恵に手を引かれて朝食へ行った。この前と同じビュフェスタイルの朝食だった。二人とも和食にした。菜々恵はもりもり食べている。このもりもりと言う例えは合っていると思う。

食事を終えた菜々恵は本当に元気いっぱいに輝いていた。それに昨日よりもずっと綺麗に見える。たった一晩で菜々恵はまた変わった。菜々恵を思って精一杯愛して可愛がってやった成果だ。これを続ければ良いだけだ、難しいことなんか少しもないと思った。

今日は遊覧船に乗って湖を一周して、それから高速バスに乗って新宿経由で帰る予定にしている。

ホテルを9時過ぎにチェックアウトした。ホテルで荷物を預かってくれたので、手ぶらで遊覧船に乗って湖を一周できた。この前とは違ってまだ夏の名残のある景色を眺めた。手を繋いで肩を寄せ合ってただ景色を眺めているだけで幸せな気持ちでいられた。

「来年も来れたらいいね」

菜々恵が頷いた。

帰りの高速バスでは二人ともよく眠った。この前もそうだった。僕も昨晩からの疲れがあったのかもしれない。やはり前日から緊張していたのだろう。

◆ ◆ ◆
駅前のスーパーで明日の朝食用のパンや牛乳、フルーツなどを買った。それから夕食用にお寿司の詰め合わせを買った。今日は着いたらゆっくりしたい。菜々恵にもゆっくりさせてやりたい。

マンションに着くとすぐにソファーで一休み。結婚式の前日の夜に大掃除しておいたから部屋は綺麗に整っている。今日は菜々恵に何もさせたくない。

菜々恵は僕に相談していたとおり、病院を辞めた。だから明日は僕を送り出したらゆっくりしていればいい。

夕食のお寿司を食べた。寝る前にお風呂に入るところだが、今日は朝から温泉に入ってきたこともあり、二人はシャワーで済ませることにした。今の季節はまだシャワーで十分だ。

僕がシャワーを終えてソファーにいるとシャワーを終えた菜々恵がパジャマ姿で洗濯物を洗濯機にかけている。明日の朝にはすっかり出来上がっているだろう。

どちらからということもなく二人は寝室へ向かった。僕は明日出勤しなければならない。この後も考えると、二人とも寝坊しないとも限らない。僕はすぐに目覚ましをセットした。

新居での初めての夜だが、ベッドで抱き合ってお互いの身体の心地よい温もりを感じていると、二人ともいつの間にか眠ってしまったみたいだった。なんとめでたい夫婦なのだろう。バスであれだけ寝て来たのに、この2日間よっぽど疲れていたみたいだ。

翌朝、二人とも目覚ましの音で跳び起きた。
< 30 / 32 >

この作品をシェア

pagetop