RIKA
第十章:さよなら結城リカ
第十章:さよなら、結城リカ
━━━━━翌日の夜━━━━━
アジトの、重い空気が流れる中、滝沢は、スマートフォンを手に取り、一つの番号を呼び出した。
『……もしもし』
電話の向こうから聞こえてくるのは、あの、聞き慣れた、夫の声だった。
「俺だ」
滝沢は、ただ、それだけを告げる。
「金の用意は、出来たか?」
「……受け取り場所を、今から言う」
場所と時間を、滝沢は、淡々と、そして、事務的に告げると、一方的に電話を切った。
隣で、そのやり取りを、黙って聞いていたリカが、おずおずと口を開く。
「前から、思ってたんですけど……電話で、やり取りするのは、大丈夫なんですか?」
「あぁ。この電話は、な。逆探知されたところで、どこかの国の、廃棄されたサーバーを経由して、もう一台の電話に行き着くだけだ」
「……そんなこと、できるんですね」
「で?」
滝沢は、リカの方を、真っ直ぐに見る。
「お前、本気なのか?」
「本気です」
リカは、迷いなく、即答した。
「私が、『椎名璃夏』として、生まれ変わるために、必要なことですから」
「……あと四日ある。もう少し、しっかり考えろ」
「……変わりませんよ。私の気持ちは」
「とにかく、ちゃんと、何回も、考えろ」
滝沢は、そう言うと、まるで、その覚悟を試すかのように、リカを、強く、睨みつけた。
━━━━━━四日後━━━━━━
その四日間、リカは、ただ、眠り、そして、考えた。失ったもの、手に入れたもの、そして、これから、自分が、何をすべきなのか。
顔を覆っていたガーゼが取れる頃には、鏡の中にいたのは、もはや、結城リカの面影を、どこにも残していない、見知らぬ女だった。
郊外に、ポツンと、一棟だけ、建物が佇んでいる。
今はもう、使われていない、廃ビル。
黄色と黒の、工事用のフェンスに、その周囲は囲まれていた。
フェンスの下が、不自然に外れている。人が、一人、通れるだけの、隙間。
結城洋太は、その隙間を、背をかがめながら、通り抜けた。
周りを、警戒するように見渡しながら、廃ビルの横にある、錆びついた非常階段を、登り始める。
(この金さえ、渡せば……全て、終わるんだ)
そう、小さな声で、自分に言い聞かせ、彼は、階段を登り続けた。
これで、邪魔者はいなくなり、望月綾と、そして、輝かしい未来が、手に入る。
階段を登りきり、屋上に出た洋太は、そこに立つ、一人の男の背中を見つけた。
屋上の端で、街の夜景を見下ろしている。
洋太は、その男に、歩み寄った。
「すいません。お待たせしました」
滝沢は、屋上から外を眺めながら、タバコを、美味そうに、吸っている。
彼は、ゆっくりと、洋太の方を振り返った。
「……満足したか?」
「え?あ、はい。本当に、助かりました」
滝沢は、何も言わず、ただ、金をよこせ、と言わんばかりに、手のひらを、洋太に向けた。
「あぁ!すいません。これ、約束の金です」
洋太は、慌てて、持っていたアタッシュケースから、分厚い封筒を取り出し、滝沢に渡す。
滝沢は、その金を受け取ると、小さく頷き、また、屋上の外の景色へと、視線を戻した。
洋太は、これで、全てが終わったのだと、安堵の息をつく。
「じゃ、僕は、これで……」
「―――洋太」
その、声は。
先ほど、洋太が登ってきた、階段の方からした。
振り返ると、そこに、一人の女が、立っていた。
夜の闇に溶けるような、黒いパンツスーツ。美しい顔立ち。だが、全く、見覚えのない女だった。
「え……?」
洋太は、戸惑い、滝沢の方を、また、振り返る。
だが、滝沢は、先ほどと同じく、外の景色を眺めながら、タバコを吸っているだけ。まるで、ここにいる女など、存在しないかのように。
洋太の方に、ゆっくりと、歩み寄ってくる女。
その手に、何か、棒のようなものが握られているのに、洋太は、気づいた。
「ちょ、ちょっと!誰ですか、あなたは!?」
洋太は、手のひらを見せ、後ずさりながら、慌てて言う。
「……私が、わからないの?」
女――リカは、静かに、そう言った。
そして、歩み寄りながら、手に持っていた、木刀かと思われた物を、ゆっくりと、鞘から、抜き放つ。
それは、白鞘に収められた、本物の、日本刀だった。
月明かりを反射し、その刃が、妖しく、鋭く、光る。
「しっ!知らない!誰だよ、お前は!?」
洋太は、滝沢の方に、再び、振り返った。
「誰ですか!この人!?」
カランッ!
白鞘が、コンクリートの床に落ちる、乾いた音がした。
その音に、洋太が、はっとして、女の方を見ると、彼女は、もう、目の前まで、迫っていた。
「さよなら……」
そういうと、璃夏(リカ)は、その鋭い刃を、洋太の首筋めがけて、真横に、一閃した。
「ごぉぉ……」
洋太は、声にならない、うめき声を上げた。
首の頸動脈から、熱い血が、噴水のように、激しく、吹き出す。
返り血を浴び、璃夏の、その、美しい顔と、黒いスーツが、真っ赤に染まった。
洋太は、血を、ゴポゴポと、吹き出しながら、両膝を、地面に着き、そして、そのまま、前のめりに、倒れた。
その、命の周りに、ゆっくりと、血の海が、広がっていく。
璃夏は、その光景を、ただ、無表情で、見下ろしていた。
そして、そのまま、滝沢の、後ろまで、静かに、歩いて、止まる。
「……滝沢さん」
日本刀を握る、璃夏の手が、微かに震えている。
「……」
「あなたは、私のすべてを、奪いました……」
滝沢は、タバコの煙を、静かに、吐き出した。
「だけど、あなたは、私に、すべてを、くれました……」
滝沢が、ゆっくりと、璃夏の方を向く。その、血まみれの、しかし、どこまでも、凛とした、璃夏の顔を。
「これからの、私のすべてを、滝沢さんに、さしあげます」
滝沢は、何も言わず、その大きな手を、璃夏の頭の上に、ポン、と、優しく置いた。
そして、踵を返し、歩いていく。
「滝沢さん!」
その、背中に、璃夏が、声をかける。
滝沢の、足が、止まる。
「帰って……私を、抱いてください」
滝沢は、一瞬だけ、振り返り、璃夏の顔を見た。
だが、すぐに、また、前を向き、歩き出す。
璃夏は、床に落ちていた、白鞘を拾い、その、血に濡れた日本刀を、静かに、鞘に収めた。
そして、小走りで、その、大きな背中を、追いかけていった。
二人の、新しい人生が、今、この、血塗られた屋上で、始まった。