RIKA
背後から囁かれた悪魔の言葉に、リカの全身に鳥肌が立つのと同時に、振り出しに戻ったかのように、再び強烈な恐怖が彼女を襲った。
どれくらいの間、そうして呆然と立ち尽くしていたのだろうか。
「メシがある。食え」
不意に、滝沢の声がした。
振り向くと、いつの間にか部屋の奥にある、小さなキッチンの前のダイニングテーブルに、二つの皿が置かれていた。一つは、綺麗に食べ終わった空の皿。そして、もう一つには、湯気の立つ、黄金色の炒飯がこんもりと盛られている。
そして、見渡すと、滝沢の姿が部屋から消えていた。
(あの男が、作ったの…?)
(いつの間に、食べて……?)
それに気づかないほど、自分は絶望の中にいたのだ。リカは、自分の精神が、現実から乖離していくのを感じた。
まったく空腹感はなかった。だが、今は、この男に逆らうべきではない。リカは、おぼつかない足取りでテーブルの椅子に腰を下ろすと、スプーンを手に取り、恐る恐る炒飯を口に運んだ。
その瞬間、強烈な空腹感が、全身を駆け巡った。胃が、食べ物を求めて、悲鳴を上げていたことに、今更ながら気づかされる。リカは、夢中で炒飯をかき込んだ。
ガチャリ、と奥の部屋のドアが開く音がして、滝沢が戻ってきた。
その姿を見て、リカは息を呑む。
裸の上半身。腰には、バスタオルが一枚だけ巻かれている。濡れた髪から、水滴が滴り落ちていた。どうやら、シャワーを浴びてきたらしい。
その、あまりにも無防備な姿が、逆に、この男の絶対的な自信を物語っているようで、リカは再び恐怖に襲われた。
食べ終えたリカは、逃げるように立ち上がると、二つの空の皿を持って、キッチンへと向かった。
滝沢は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、部屋の隅にある、簡素なベッドに向かおうとした。その時だった。
「あの……」
リカは、自分でも驚くほど、か細い声で、男を呼び止めていた。
滝沢は、振り返り、怪訝な表情でリカを見る。
「あ?」
言葉が、喉の奥に詰まる。
こ…怖い…。だが、聞かなければ。
滝沢は、少し急かすように、低い声で言った。
「なんだ?」
リカは、意を決して、言いにくそうに、しかし、はっきりと尋ねた。
「お名前は……何と、お呼びすれば、いい……ですか?」
その問いを聞いた瞬間、滝沢の、人を射殺すような鋭い表情が、ふっと綻んだ。
そして、なんだそんな事か、と言うように、フッと、短く息を漏らして笑った。
「……滝沢だ」
そう言って、彼は今度こそ、ベッドへと向かっていった。
(滝沢……)
リカは、その名前を、心の中で反芻する。
殺されることは、今のところ、ないのかもしれない。
だが、一生ここから出られないかもしれない。一生、この滝沢という男に従って、生きていくことになるのかもしれない。
リカは、その可能性を、少しだけ冷静に受け入れることにした。
でないと、もし、万が一にもチャンスが訪れた時、柔軟な行動が取れない。そう、考えたからだ。
皿洗いを終え、先ほど炒飯を食べたテーブルの椅子に、再び腰を下ろす。
ベッドにいる滝沢と、少しでも距離を取れる、この場所。無意識に、ここが、今の自分の安全地帯だと感じていた。
「おい!何してる?」
突然、大きな声が飛んできて、リカの体が跳ね上がった。
冷静になろうと決めたばかりの心が、一気に緊張に支配される。
「あ!はいっ、いえ、何も……!」
リカは、慌ててそう答えた。
「俺は寝る。……逃げたきゃ逃げればいいし、死にたくなりゃ、それもいい。このまま俺といても、どうせ同じようなもんだろ」
そう言うと、滝沢は、本当に、そのままベッドに横になり、すぐに寝息を立て始めた。
(確かに、そうかもしれない……でも、生きることが、今は唯一の希望……)
(逃げる……?)
この建物からの出入り口は、おそらく、あの鉄の扉だけ。外には、見張りがずっといるのだろう。
(……やっぱり、無理よね)
リカは、心の中で、小さく呟いた。
眠れるはずもなかったが、彼女は、リビングのもう一つのソファに、静かに横になった。
今日は、ここで寝ることにした。
そして、静寂の中、今日一日で起きた、信じられない出来事の数々が、リカの頭の中を、何度も、何度も、輪転していた。
━━━━━━翌朝━━━━━━━
テレビの、無機質な音声で、リカは浅い眠りから目を覚ました。
『……現場で発見されたのは、住所不定無職、指定暴力団「竜神会」幹部の、丸山泰造さんと判明し……』
ぼんやりとした頭で、そのニュースを聞く。
『犯人は昨夜、警察署に自首しており、暴力団同士の抗争が原因と見て、警察は捜査を進めています……』
(え?昨日の……?)
リカは、ハッとして、ベッドの方を見た。
滝沢は、ベッドに横になったまま、静かにそのニュースを見ていた。そして、リカの視線に気づくと、リモコンを手に取り、プツリ、とテレビの電源を切った。
部屋に、再び静寂が戻る。
滝沢も、リカを見ている。
その、底なしの闇のような瞳が、静かに、リカに問いかけていた。
「なんだ?」
リカは、声にならない悲鳴を飲み込み、慌てて、何度も、首を横に振った。
目の前の男が、昨日、細道で、人を殺した。
そして、その犠牲者は、ただのチンピラなどではない。名の知れた、暴力団の幹部だった。
自分は、とんでもない事件に巻き込まれてしまったのだと、リカは、ようやく、本当の意味で、理解した。