十六夜月と美しい青色
 2杯目のカクテルが終わろうとする頃、和人が、バーのCloseを結花の耳元で囁いた。突然のその甘い声に驚き周りを見渡すと、食堂の方はすっかり明かりも消されていて、いつの間にか、結花一人だけになっていた。

 バーの壁に掛けてある古い柱時計は、手入れが行き届いてるのか、コチコチと正確なリズムを刻んで、10時を僅かに過ぎたところだった。

 「失恋は、新しい恋で上書きするといいって言いますよ。結花さん、今夜は何もかも忘れて、僕に一夜を委ねてみませんか?」
 
 冗談とも本気とも分からない言葉で、カウンターの向こう側から、結花の顔を覗き込むように和人は誘う。その切れ長の目線に揺さぶられ、結花の心臓は激しく鼓動を奏でていた。

 バーの灯りは、彼の頭上の一ヶ所だけが灯されているだけで、それがまた、神秘的な雰囲気を作り出していた。周りは仄暗くなり、その明かりに透ける彼の亜麻色の髪が、結花には、子どもの頃に読んだおとぎ話の王子様のように見えた。

 「貴方は私の王子様なの?」

 カクテルの魔法にかかったのか、結花はふわふわとする気持ちをいたずらに弄びながら呟いていた。

 「さあね。もしかしたら、ただの狼かもしれないよ。」

 結花の視線に、バーテンダーは自らの視線を絡ませると、瞳の奥を探るように見つめた。
 
 「そうよね…、名前も知らないし、そもそも王子様なんて、子どもでもないのに変な事を言って。それに、Closeに気づかなくてごめんなさい。お部屋に戻るから。」

 狼狽えながら、そう答えて席を立とうとすると、慣れないアルコールのせいでバランスを崩してしまった。すかさずカウンターから出てきた和人に、後ろから抱きかかえられた。
 
 「あ…ありがとう。でももう、大丈夫だから。」
 
 身体を離そうとする結花を、和人は腰にまわした両腕に更に強く力を入れて、身動きができないほど強く抱き寄せた。そして二人の体温が溶け合いそうなほど密着する身体に、結花は何も応えることができずにいた。

 「…この一夜を、僕にくれませんか?」

 低く掠れる声に、堪らない情欲の色が濃く醸し出されているのが、結花の身体の芯までも伝わる。

 仕事柄、香水などは使うことがない凌駕とは違い、和人の身体から僅かに香るムスクとアルコールの匂い、そして首筋を這う柔らかな唇の感触、臀部に当たる男性の欲望が、結花の女としての欲望に火をつけ、身体の奥底がそれを求めるように疼きはじめた。
 
 不意に、向き合うように抱き締められた。結花の耳には、和人の鼓動しか聞こえてはいなかった。

 「僕は、和人。32才。時々、週末にここのバーを手伝っている。僕の部屋でいい?」

 結花の耳元にそっと囁くと、和人の唇は、そのまま耳朶を甘噛みし、涙の痕を伝って結花の唇を押し開くように舌を絡めると、結花も応えるように舌を絡めた。二人の甘い吐息だけが、仄暗いバーカウンターに響き渡り闇に消えていった。
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