十六夜月と美しい青色
 「そういえば、授かり婚だってね。おめでとう」

 凌駕を見据える和人の目は、決して祝福をしているわけではなかった。

 「なんで、貴方がそれを知って…。結花から何か聞いたのですか?」

 「多少はね。ただ、私たちの間に縁談が持ち上がっていて、時機を見計らって婚約を公表する手はずになっている。だから、彼女のことを呼び捨てにするのは止めていただきたい。過去に彼女と何があったにせよ、今後は一切かかわることを止めてくれないか」

 「どうして…」

 凌駕は、いきなり胸元を掴まれたような感覚になった。強い独占欲を(あらわ)にされて、(すく)んだ身体から言葉が上手く発せられない。

 「君が幸せにしなければいけない女性は、ここにはいない。自分が手放した女性(ひと)が、どれほど得難い女性だったか思い知ればいい。その喪失感など結花が受けた痛みに比べたら、足元にも及ばないだろうがな」

 ふっ、と和人が息を吐いた。それは、溜息とも嘲笑とも取れるものだった。

 開店までわずかな時間になり、出勤してきた他のテナントのスタッフたちがその様子を見て騒ぎ始めた。

 「これ以上は、他のスタッフたちに騒がれては困るから、もう引き上げてくれないか」

 和人は凌駕に背を向けると、胸ポケットから名刺入れを出し、その中の一枚を結花に渡した。

 結花も、まさか和人がこんな行動をとるとは思わず、驚きのあまり言葉が出ないまま、手渡されたそれを受け取った。

 「業務用の携帯番号が印字してあるから、スマフォに登録しておいて。もし何かあったら、いつでも連絡してきて」

 結花の耳元でそっと囁くと、足早にカフェからフロアの方へ歩き始めた。そして、パン!と手を叩き、フロアに響き渡るような音を立てスタッフたちの視線を集めた。
 
 「開店準備はいいですか、お客様をお迎えする準備はできていますか」

 その際立つバリトンの響きと立ち姿に、フロアに(たか)り始めていたモールやテナントのスタッフたちは、慌ててお客様を迎え入れるための定位置へと戻っていった。声を掛けながら正面入口へ向かって進んで行くその後ろ姿は、いま結花に見せた甘い雰囲気など微塵も感じさせない威厳を保ったものだった。彼もまた、彼の父親と同じように、将来その双肩に大きな責任を負うにふさわしい人物だということを、結花は初めて目にしていた。

 凌駕も、和人の持つ雰囲気に圧倒されたように、結花にそれ以上声をかけることもなくバックヤードへの入口へ向かって台車を押して逃げるように出て行った。

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