光の鍵
また朝が来た。
じゅうぶんに寝たはずなのに体はだるくやっとのことで体勢をかえる。
なぜに病院の天井はこんなにも寒々しいのだろう。
大きな窓からは眩しいほどの光りが差し込んでいるのに、どこか薄暗く気が滅入る。

子供のころから何度も入退院を繰り返しているが一向に慣れることがない。
同じような境遇の子は数名いて、病院の中で出会い親友になって退院していく子たちも沢山いる。
葵はそんな人達を見ながら、自分とは違う異次元の生き物だと思うことにしていた。

「おはよう。体調はどう?」
彼女は私が子供のころからここにいる看護師の吉井だ。
後ろに束ねた黒い髪、面長で白い顔。
長らく働いているが偉そうに振舞うこともなく、ほかの看護師のようにニコニコ笑ったり、取り繕うような会話をしない。
淡々と仕事をこなし、余計なことを言わないので居心地が良い。

吉井は私の返事なんて待っていないかのようなスピードで続けて話す。
「もうすぐ退院ね。卒業式には間に合いそうでよかったわ」
卒業式?いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。
学校にろくに通えなかった私の事を、クラスメイトは初めこそ気にかけてくれたが、何度も入退院を繰り返すうちに、まるで初めからそこにいなかったかのように、目を合わすことすらなくなってしまった。
中学からの友人も、高校に入り化粧をしたりおしゃれを楽しんだり、見た目も態度も別人のようになっていった。

学校にいても病院にいても、空の色や時計を見つめ時間が過ぎていくのを待っている。
そんな毎日を送っていた。

重い体を起こし、病室を出た。
葵はいつも朝早くに病室を出る。
同部屋の子たちが交わす「おはよう」とか「今日もいい天気だね」とかまるで心にもないようなことを語り合う姿を見るのが嫌いだった。

団欒スペースと呼ばれる小さな部屋がある。
この時間は葵以外の人間がいることはなく、しーんと静まり返った部屋で過ごすことが日課になっていた。

扉を開けた瞬間に、男の声が聞こえてきてドキッとした。

「あぁ~会社いきたくないな~」
窓を見つめながらそう呟いた男はこちらを振り返り、一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに表情を変えて「おはよう」と言った。

その姿があまりにもぎこちなくて、滑稽できっと正直な人なんだろうと思った。

「おはよう」と私が返事をしようとした瞬間に彼は笑い出した。
大人でもこんな顔するんだな・・・くしゃっと顔にしわを寄せた笑い顔は、私がこれまで出会った大人からは見たことのない表情だった。

「大人でもこんなこと言うんだな。って思ったでしょ」
心の中を読まれたようで葵はどきりとした。
まだ笑いが止まらない様子の彼は続けて話す。
「そんなもんだよ。俺だって君ぐらいの頃はさ、大人になったら自然と仕事ができるようになって、色々諦められるようになるんだって思ってたけど、全然だよ。身体だけはしっかりおじさんになってるけどね」

初めて会った私にまるで昔からの知り合いのように話してくる彼を、葵はじっと見つめる事しか出来なかった。

「あっ。もう行かないと。今日会議なんだ。行きたくないけどね。大人だから、いってきます」
悪戯っぽい顔をしてスーツの上着を着た彼は、すっかり大人の男性の表情に戻っていた。

その日から朝が来るのが待ち遠しくなった。

平日の朝、彼はいつもそこにいて窓の外を眺めている。
背が高く、手足が長い。
綺麗にアイロンのかかったシャツを着ている後ろ姿は、まるで手の届かないような存在なのに、振り向き顔を合わせるとそんな壁など初めから無かったかのような感覚に陥る。
不思議な人だ。

葵は彼の「おはよう」が好きだった。
低音だけれど柔らかく、優しい声はヒンヤリとした病院の空気さえも一瞬で変えるような不思議な音をしていた。

「おはよう・・・ございます」
後に続ける私の声はぎこちなくて冷たく、いつも嫌悪感に陥る。

もっと可愛く返事が出来たらいいのに。
まっすぐに見つめる彼の瞳が眩しくて、葵はいつも俯いてしまう。

お母さんが重い病気で入院していて、24時間家族で交代して付き添っている事。
仕事が終わると、急いで夕食を食べ病院に来ること。
この近くのビルで働いていること。
私が彼について知っているのはそれぐらいの事だった。

私が高校3年生で、入退院を繰り返していること。
もうすぐ退院すること。
私が彼に伝えたのもそれぐらいの事だった。

その日、目が覚めると窓の外には季節外れの雪がちらついていた。
3月なのに雪が降るなんて何年ぶりだろう。
寒さに弱い葵は、ゆっくりと起き上がりショールを羽織った。
母親が買ってきたそれは、鮮やかな赤色で葵には明るすぎて、ずっと紙袋の中に入ったままだった。
肩にかけると暖かく肌触りは優しくて、なんだか彼のようだと思った。


無性に彼に会いたくなり、鏡の前で髪をとかす。
鏡にうつる自分の顔が嬉しそうで、自分じゃないみたいで驚いた。

足早に団欒スペースに向かった。
彼はいつものように窓の外を見つめていた。
でもいつもの、背中からあふれ出す優しい空気はそこにはなかった。

彼は白いニットのセーターを着ていた。
仕事着ではない姿を見て、何となく事情を察した。
彼の背中がいつもより小さく見えて、震えているようで、葵はゆっくりと彼に近づいた。

「おはよう」初めて自分から声をかけた。
驚くように振り向き「おはよう」と言いかけた彼の目からボロボロと涙が零れ落ちた。
大人でもこんな風に泣くんだな。
そう思ったと同時に葵は彼の小さな背中を包み込むように抱いた。

崩れるようにして座り込む彼を、しばらくずっと抱きしめていた。
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