光の鍵
彼女の面影
また朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む光に照らされる瞬間がこんなにも憂鬱になったのはここ最近だ。
高校1年生の一学期までは、楽しいとまではいかないものの朝が来たらベットから出て、準備をして学校に行く。
そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。

中学生の頃の僕はサッカー部に入り、友達もたくさんいた。
キャプテン候補なんて言われていて、自分で言うのもなんだけど、みんなから慕われていた。

高校でも当たり前のようにサッカー部に入った。
キラキラとした毎日に希望を抱いていた。
でもすぐに僕の才能なんてこれっぽっちもない事に気付いた。
 
上には上がいる。
そんな事は分かっていたはずなのに、これまでの自分を否定されたようで、中学時代の楽しかった思い出さえも恥じるような自分が嫌で、徐々に部活に行く回数が減っていった。
来なくなった僕を咎める人も、気に掛ける人もいなかった。
グラウンドでは、変わらずサッカーボールを蹴っているかつてのチームメイト達が何がそんなに楽しいのか眩しいぐらいの笑顔で練習をしている。

僕には隆という友達がいた。
バカ話しをしたり一緒に音楽を聴いたり、気を遣わずにいられる気楽な相手だった。

そんな隆とある日を境に話さなくなった。
新しいカバンを隆にいじられた。
ただそれだけの出来事だった。
母親が買ってきたそれは、自分でもちょっと趣味じゃないなと思っていたのだが、それを否定された時に、何故か腹の底あたりからドロドロとしたものが湧き上がってくるような感覚になった。
これまでならそれを飲み込んで愛想笑いをしてやり過ごしせたはずなのに、その日はどうしてもそれが出来なかった。
ちょうど母親の5回目の入院が決まった日だった。

人と喧嘩をしたことも、思ったことを正面から伝えた事もなかった僕は、どうやって怒りをぶつけたらいいのか分からなくて、震えながら隆に向かっていった。

自分が何を隆に伝えたのかも覚えていない。
ただ傷ついたような顔で教室を出ていく隆の背中だけが鮮明に頭に残っている。

放課後、駅のホームで隆に会った。
喧嘩もしたことがない僕が仲直りの方法なんて分かるはずもなく、ただ気まずくて目をそらして隆の横を通り過ぎた。

その日以来、隆と話すことはなくなった。
他の友達と楽しそうに笑う隆は、次第に僕の目を見ることもなくなっていった。

憂鬱な朝を迎え、重い足取りで学校へ行く。
誰とも話さず、目を合わすこともなく過ごす毎日は、時間が過ぎるのをただひたすらに待ち続けるような薄暗い日々だった。

それでも一日は始まり終わっていく。

「24時間は平等に与えられてるんだな。もっと充実して過ごしている人に分けられたらいいのに。律儀に24時間を分け与えやがって」
そんな皮肉な事を考えながら過ごしていた。

一人で過ごすことにも慣れてきたある日の朝「おはよう」と声をかけられた。
同じクラスの桜だった。
綺麗な黒髪に切れ長の目、長い手足、彼女の大人びた容姿はクラスの中でも目立ってはいたが友達と群れることもなく、かといって壁をつくっているわけでもない。
美しい黒猫のようだと思っていた。

突然声をかけられて驚いたのと、周りの目が気になり返事が出来ないでいると、彼女は気にする様子もなく自分の席に向かっていった。

翌日もその翌日も、それから毎日のように桜は僕に「おはよう」と言った。
僕も「おはよう」と返すのだけれど、どうしても彼女の目が見れなかった。
美しい彼女をどんな顔で見たらいいのか分からず、どうしても顔を上げられなかった。

数週間たったある日、いつものように挨拶されたので「おはよう」と答えると
ものすごい剣幕で怒鳴られた。
「ねえ、挨拶ってそういう風にするもんじゃなくない?ちゃんと目を見てするものでしょ!あなたのその態度見てたら腹が立つのよ。」
突然の事に僕は言葉を失った。
クラス中がしんと静まりかえり、みんなが注目しているのが分かった。

どうしていいか分からず困惑する僕は、しばらく考え「おはよう」と彼女の目を見て言った。

僕を見つめる彼女の眼差しはみるみる和らいでいった。
「上手じゃん」
僕の頭をまるで犬にするように撫でた彼女は、目じりに皺をよせて笑った。
その顔がとても綺麗で僕はずっと彼女の顔を見ていた。

息をひそめて見守っていたクラスのみんなが笑い出した。
隆も笑っていた。
「おまえの今の顔、最高に面白かったぞ。間抜けな顔して、ウケる〜」
酷い言葉のはずなのに、温かくて嬉しかった。
「うるさいよ、ほっとけよ」
まるで昔に戻ったかのように、あの空白の時間などなかったかのように隆と笑いあった。

桜はいつもと変わらず、窓際の席で外を眺めている。
その横顔は美しく、僕はずっと彼女を見ていた。
吸い込まれそうな白い肌、どこか儚げな表情は本当に魅力的だった。

その日から毎日クラスの数名が僕に「おはよう」と言ってくるようになった。
あの一連の流れを再現するように、みんな僕の返事を楽しみにしているようだ。
そのたびに顔を上げて「おはよう」と返す。
正直面倒ではあったが、誰とも話さない朝よりは随分マシだと思った。

桜はあの日から学校に来なくなった。
誰に聞いても理由も彼女の家さえも分からなかった。

1週間ほど経ったある日の帰り道、堤防沿いを歩いていると桜がベンチに座っていた。
遠くからでも彼女の様子がいつもと違うことがわかった。

急いで堤防を降りたものの自分から声をかけるのは初めてで、なんと声をかけようか迷っていた僕は、振り返った桜をみてどきりとした。

彼女はいつも纏っている凛としたオーラを脱ぎ捨てて、まるで捨てられた子猫のようだった。
頬のあたりが赤く腫れていた。
言葉が出てこず、肩を震わせる彼女の手をそっと握った。

冷たく冷えた手が、僕の体温で少しずつ温もりを取り戻す。
僕にできることがあるのだろうか。
言葉さえかけられない僕を、彼女は何と思っているのだろう。
川の音を聞きながら、そんなことを考えていた。
「私ね、ずっとあなたの事見ていたのよ」
「えっ?」
「あなたの顔が好きなの」
「えっ?」
「笑ってる顔が好きだった。顔をクシャクシャにして笑うところ。あなたを見てると昔飼っていた犬を思い出すの」
「犬?」
悪戯っぽい顔で笑う彼女はいつもの桜にもどっていた。

「全然いう事聞かない犬でさ。投げたボールなんて取りに行ってやくれない。でも私がさみしい時だけ傍に来てくれるの。何時間だってずっと隣に座ってくれる」
「それに僕が似てるの?」
「うん。挨拶しても目も見てくれないところとか、腹が立つったらありゃしないわよ」
「なんだよそれ」
僕が笑うとうれしそうな顔で
「その顔がまた見たかったんだ。よかった」
とつぶやいた。
「自分が気にしてることなんてさ、実は相手は全然気にしてない。ただ気まずくて、それがいっぱい重なって、いつのまにかほどけなくなるんだよ」
彼女は目を細めて続けて言った。
「糸が切れて後悔しないようにしなくちゃね」

立ち上がった彼女の背中は凛として本当に美しい人だな。と思った。

その背中が僕が見た最後の彼女の姿だった。
この街を出て行き、そのあと彼女は亡くなったらしい。
それぞれが彼女の物語を作るように、色んな噂が流れてきた。
そしてすぐに彼女のことなんて忘れてしまったかのように、誰も彼女の話をしなくなった。

大人になった今も、僕は時々彼女を思い出す。
美しい黒猫のような彼女を。

入退院を繰り返していた母親の容態が悪化していた。
家族会議の末、平日の夜は僕が病院に泊まることになった。
日に日に弱り、話すこともままならなくなった母さんだけど、あさ目が覚めると必ず僕を見て「おはよう」と言った。
僕はその「おはよう」の言葉を聞くと安心した。
その声を聞いて病室を出る。
ここ最近は会社と病院の往復で、慌ただしく毎日が過ぎていく。

すぐに会社に向かうのが嫌で、ぼくは病院の団欒スペースに立ち寄った。

朝の団欒スペースには人はおらず、しーんと静まりかえっていた。
大きな窓からは、僕の働くビルが見える。
あのビルの中で蟻のように働くのかと思うとげんなりした。

「あぁ~会社いきたくないな~」
そう呟いて振り返ると女の子が立っていた。
黒猫のような美しい女の子だった。
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