光の鍵
おはようの先にあるもの
まるで子供のように涙を流す彼の背中をどれぐらいの時間抱いていただろう。

震える背中を抱きしめる事で彼の体温が少しずつ上がっていくのを感じた。
彼の悲しみを少しでも和らげたい。
そんな風に思いながら何も言わず、ただそうしていた。

暫くして少し落ち着いた彼は大きく息を吐いて振り返り照れ臭そうな顔をした。
「大人でもこんなに泣くんだ。って思っただろ」
「…はい」
「ごめんね。大人気なくて」
雪のように白い彼の横顔は、優しくて儚くて消えてしまいそうだった。

「もう長くないって分かってたんだけど、話すこともできなくなった母さんを見てたらなんか辛くなっちゃって。
もう母さんの“おはよう“が聞けなくなるんだなって思ったらさ、なんか色々思い出しちゃって」

何と声をかけたらいいのか分からず黙っていると、遠い目をして呟くように彼は続けて言った。

「似てるんだよ」
「えっ?」
「君を見たら彼女のこと思い出しちゃって。堪らなくなった」

彼はゆっくりと話だした。
まるで大切な思い出の箱にかかったリボンをほどいていくように、学生時代の事、私に似ていたという黒猫に似た女性の話を。

「”おはよう”の言葉が暗い僕の毎日に光を灯してくれたんだよね。だからそれを伝える相手がいなくなるのかって思うと寂しくて」
そう言うと私の顔を覗き込んで
「君は大丈夫?」
と優しい声で聞いた。
「彼女は僕を救ってくれたのに。あの時、僕が彼女の話をもっと聞いていれば彼女の未来は変わってたのかな。とかさ。ずっと考えてた」
そう言った彼は、私の顔を見ずに言った。
「ほら、僕にさー、相談したい事とか、ないのかな?」
急にお兄さんみたいな口調で話す彼が可笑しくて可愛い人だと思った。
少し考えて葵は
「ありがとう。でも大丈夫です。なんか頑張れそうな気がする」
そう言って笑った。
「初めて見たよ」
「えっ?」
「君の笑う顔」
葵は急に恥ずかしくなった
「君にはさ、これからまだまだ長ーい人生が待ってる。“おはよう“って言える相手が、沢山できるといいね」
私の目をしっかり見つめ笑う彼は、元の大人の表情に変わっていた。

それから彼に会うことは無くなった。

退院する日の朝。
いつものように団欒スペースに行った。
立ち並ぶ高いビル。
あの中にあの人がいるんだと思うと、なんだかパワーが湧いてくる。

病室に戻ると看護師の吉井がいた。
「おはようございます」
声をかけると
「おはよう退院おめでとう。きっと次は大丈夫ね」
「えっ?」
「今までて1番いい顔してる。もう戻ってくるんじゃないわよ」
にっこりと笑う吉井を見て、綺麗な人だったんだな。と思った。

病院を出ると、生暖かい風が吹いてきた。
土と花の混ざったようなにおいが懐かしい。
もうすっかり春になっていた。
葵は大きく息を吸い込み、背筋をピンと伸ばして川沿いの道を歩いた。

2か月ぶりの学校。
クラスの扉を開ける瞬間は毎回緊張する。
重い扉を開け中に入ると、数名がこちらを見て目を逸らす。
そしてまたそれぞれの話題に戻る。
幾度となく経験してきた事だ。

先生に誘導され席に着く。
「おはよう」
勇気をだして隣の子に声をかけた。
「おはよう。ひさしぶりだね」
彼女は私の目を見て微笑んだ。

〜自分が気にしてることなんてさ、実は相手は全然気にしてない。ただ気まずくて、それがいっぱい重なって、いつのまにか解けなくなるんだよ。〜
彼から聞いたあの言葉を思い出していた。

「おはよう」の言葉で絡まった糸がほどけていくように感じた。
絡んだ糸を解こうともせず、放っておいたのは自分だった。
人のせいにして、自分の殻に閉じこもる楽な選択をしていたのかもしれない。

それから少しずつ葵の生活は変わっていった。
嫌な事がない訳では無いが“おはよう“を言い合える毎日はなかなか良いもんだと思った。

卒業から4か月がたった。
ようやく就職が決まった葵は、初出勤の朝を迎えていた。
鏡に映るスーツ姿の自分を見る。
鏡越しに笑顔を作る。
その顔があまりにぎこちなくて笑ってしまう。

オフィス街にはたくさんの人がいた。
足早に歩く人たちを見てよくぶつからないな。
と感心しながら履きなれないヒールで慎重に歩く。
やっとの思いで会社のビルの前についた。
見上げた建物はあまりにも高く空に吸い込まれていくような感覚に陥る。

大きく息を吸い込み前を向く。
ビルの入り口に着くと
「おはよう」
という声がした。
優しくて温かい声の持ち主が彼だと一瞬でわかった。
「会社いきたくないなぁ。朝は嫌いだよ」
そう言って、笑う彼はあの日と同じ優しい顔をしていた。
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