恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 書籍のタイトルや出版年月などが記されている
ページの端に、鉛筆で走り書きが残されている。
 「https」から始まる長い英数字。

 何かのアドレスだろうか?

 蛍里は顔を上げると、同じ経理部の結子(ゆうこ)
声をかけた。

 「五十嵐(いがらし)さん、これ、誰のだかわかります?」

 斜め前の席から、結子が視線だけをこちらに
向けた。書店のブックカバーを外して、文庫本の
表紙を見せる。

 数年前にドラマ化された、有名作家のものだ。
 まったく同じものが、蛍里の本棚にも収められ
ている。だから、これは自分の物ではない。

 「知らない。私のじゃない事だけは確かね。
落とし物?」

 「落とし物……だと、思うんですけど」

 ほぼ予想通りの結子の返答に頷きながら、
蛍里はもう一度最後のページを開いた。
 アドレスを眺める。
 この、乱雑に書かれた英数字を辿っていった
先に、いったい何があるのだろう?

 不意にそんな考えが頭を(もた)げて、蛍里は
手にしていた文庫本を閉じると、そっとデスクの
引き出しにしまった。そして、何ごともなかった
かのように仕事に取りかかった。

 決して、悪いことをしているわけではない
のに、胸がどきどきする。

 もしかしたら、読書が趣味だと知る社内の
誰かが、自分の席に置いたものかもしれない
のだ。

 だから、落とし物として届ける前に一度だけ。

 蛍里は定時に仕事を終えると、その本を
そっと鞄に忍ばせて、帰路についた。






 長い英数字を入力し、検索ボタンをクリック
して出てきたのは、「詩乃 守人(しの もりひと)」という
作者が管理する、小説サイトだった。

 真っ黒な背景の所々に、ちらちらと淡色(うすいろ)
花びらが舞う、幻想的な画面がサイトの表紙
となっている。蛍里は、へぇ、と無意識に
声を漏らすと、サイドメニューの一番上に
ある、「小説一覧」をクリックした。

 すると書籍の表紙の絵柄と共に、いくつもの
作品が目の前に現れた。

 タッチパッドに指をあててスクロールしてみ
れば、短編ものやシリーズものなど、16もの
作品が並んでいる。
 
 蛍里は一番上の作品をクリックした。
 そうして、真っ黒な画面に浮かび上がる白い
活字を、目で追い始めた。

 物語は、いわゆる恋愛を主体としたもの
だった。

 家政婦として古い邸にやってきた少女が、
その邸の主である男性と恋に堕ちるという淡い
恋物語で、とくに物語自体に新鮮な要素はない。

 けれど蛍里は、「詩乃守人」、その人の綴る
文章に引きこまれてしまった。

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