恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 そこには、少し寒そうにトレンチコートの襟を
立てた、黒のキャリーケースを手に引いた、榊
専務が立っていた。

 「……専務!?」

 蛍里は、予期せぬ人物の登場に、思わず声を
ひっくり返しながら、勢いよく立ち上がった。
 その驚きようが可笑しかったのか、専務が目を
細めくすりと笑う。
 
 彼の笑顔を見るのは数日ぶりだなんて、そんな
ことを思って、また切なさを思い出してしまった
蛍里に近づくと、彼はベンチに腰掛けた。

 「こんな時間に、こんなところで何を?」

 突っ立ったまま、自分を見下ろしている蛍里に
専務が訊く。それはこちらのセリフだと、思わず
そう口にしそうになりながらも、蛍里は「あの」
と、混乱した頭で言葉を探した。

 「ちょっと……その、人と待ち合わせを。それ
より、専務こそどうしてここに?」

 どうしていま、このタイミングで彼がここに
現れたのか?

 ひとつの可能性を考えれば、どうしたって胸の
鼓動は大きく鳴って仕方ない。

 蛍里はごくりと唾を飲むと、彼の一挙一動に
目を見張った。専務が小首を傾げる。

 「どうして……と訊かれてもね。僕はただ、
出張帰りにここを通ったらあなたを見かけたの
で。こんな時間にひとりで何をしているのか、
と思って声をかけただけです」

 隣に座るよう、片手で蛍里に促しながら専務
が言う。蛍里は納得した、とは言い難い顔で彼
の傍らに置いてあるキャリーケースに目をやる
と、大人しくベンチに腰かけた。

 そうして、それとなく公園内の時計に目を
やった。いまは約束の10分前。



-----つまり、6時50分だ。



 もう、いつ詩乃守人が現れてもおかしくない。

 けれど、専務は川の水面に揺れる青い光を
静かに見つめている。蛍里はどうすることも
出来ないまま、同じ風景をじっと眺めた。

 「あれから、滝田さんとは?」

 不意に、専務が口を開いた。

 送別会の夜の、あの出来事を訊いているの
だろう。蛍里は暗い顔をして俯くと、小さく
首を振った。

 「滝田くんとは、まだ……何も話してない
んです」

 その言葉に、ちら、と専務が自分を見たの
がわかる。けれど、蛍里は何となく彼の顔を見
ることができずに、俯いたまま言葉を続けた。

 「わたし、狡いのかもしれません。滝田くん
の気持ちを受け止められないって思うくせに、
彼に嫌われてしまうのが悲しくて、自分からは
何も言えないんです。ただ、こうして待って
いれば彼の方から笑いかけてくれるんじゃない
か、とか都合のいいこと考えたりして……」

 なぜ、自分はこんなことを専務に話している
のだろう?

 蛍里は心の内を吐き出してしまってから、
恥ずかしくなって、彼の様子を窺った。

 専務は前を向いたままで、口元に淡い笑みを
浮かべている。

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