とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 美帆に拒絶されたことは何度もあるが、今までには感じたことのない喪失感だった。

 どんなにひどい言葉を言われても、今までなら立ち上がれた。だが、今回はそんな気力がなかった。

 どこをどう帰ったかも分からないまま家に辿り着く。ひとりになった部屋に入ると余計に喪失感が強くなった。

 何もない空間。なにも感じない空間。慣れていたはずの自分の部屋がとても居心地悪く感じた。

 ────文也さんは、寂しくないんですか。

 美帆の言葉を思い出す。答えはノーだ。今までもこれからも、その感情は永遠に持つことはないだろう。

 いや、本当は持っていたのかもしれない。だが、持たないようにしてきたのだ。意味のない感情は持っているだけで無駄だ。

 あの家で、自分は感情を殺した。



 美帆が津川家に抱いていた金持ちのイメージが世間一般と同じものだったのなら、本当のことを言ったら言葉を失うかもしれない。だが、幼い自分にはそれが生きる世界だった。

 実力主義の父親はテストの点数が悪ければ容赦なく罵倒した。頭脳明晰の兄ですら口汚い言葉で何度も罵られているのを聞いた。自分はその比ではなかった。

 何もない部屋に閉じ込められて、延々と勉強させられる。気が散るからとベッドや他のものは分けられて、ただ毎日机と椅子に向かった。

 息子がそんな状況下で父親に罵倒されていても母親は平然と食事を持ってきたし、毎日のように散財していた。あの家は頭がおかしかった。

 ────こいつらには感情がないんやな。そう思うようになった。

 家の中では静かに振る舞った。発言する機会があるまで一言も喋らなかった。

 その代わり、外に出た時は思い切り喋った。学校にいるときは父親は見ていない。明るくひょうきんに振る舞うことで、失った感情を取り戻そうとしていた。そこで帳尻を合わそうとした。

 それは家を出てからも続いた。他人の前では常に明るく振る舞ったし、本当の自分など微塵も見せないようにした。「役立たず」と罵られた自分を消そうとしてたのかもしれない。

 ────寂しくないんですか。

「……寂しいなんて思ってへんよ」

 生きるために必要のない感情は勝手に消えた。だから、そんなものはない。

 いつか聞いたことがある。本当に辛い記憶というのは、頭の中から消えるのだそうだ。覚えておくと心が壊れてしまうから、脳が忘れてしまう。

 けれどふと思い出した今も、何も思わない。あの時は感情が抜け落ちていて、記憶の中に穴が広がっているだけだ。

 そしてその代わりに新しい記憶が埋まった。美帆との記憶だ。

 感情的な美帆といると不思議な気持ちになった。形ばかりで振る舞っていた空洞に何かが生まれて、とても満たされた気持ちになった。美帆が怒ったり笑ったりすると、それに呼応するように自分の感情が動いた。

 感情ある人間を装って軽々しい振る舞いしかできない自分に、本当の感情を与えてくれたのは美帆だった。

 涙は流れない。ただ、寂しいと思った。
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