とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 文也は受付に行き、受付嬢に話し掛けた。

「津川社長に、津川文也が来たとお伝えいただけませんか」

 受付嬢は少し間を開けて、慌てて承知いたしました、と答えた。無理もない。会社に来るのはかなり久しぶりだ。恐らくほとんどの社員達が文也のことを忘れているに違いない。

 文也は受付嬢に言われた通り奥にあるエレベーターに乗った。こんな手順を踏まなくても社長室の場所は知っていたが、父は礼儀に厳しい人物だ。無作法に社長室を直に尋ねると後でくどくど説教されるに決まっている。

 社長室の重苦しい扉の前まで来たが、なんとなく躊躇っている。この部屋に入るのは昔から苦手だった。

 だが、こんなところで足踏みもしていられない。四回扉をノックする。すると中から低い声が聞こえた。

 扉を開け、まず何よりも先に一礼をした。

「お久しぶりです。社長」

 ────こんな時でも社長か。馬鹿馬鹿しいな。

 家では「父さん」、会社では「社長」。

 父、雅彦(まさひこ)が決めたルールだ。ロボットを従順に動かすためのコード。鎖。

「見ない間に会社の外で色々やっていたようだな」

 文也は下げていた視線を僅かに上げた。

 雅彦のことだ。いくらバカ息子が用無しになっても、ある程度は監視を続けていたのだろう。それぐらい文也も分かっていた。

 会社の業績が上がれば雅彦の耳にも入る。雅彦はそれを見逃すような男ではない。

「会社を立ち上げました。業績はこちらにはまだまだ及びませんが……」

「謙遜するな。お前にしてはよく出来ている方だ」

 褒められたのは初めてだった。だが、文也は喜びよりも疑念が湧いた。

 幼稚園のお遊戯ではない。雅彦がただ単に息子が頑張ったから褒めるなどという単純な思考の持ち主ではないことはよく知っていた。

「文也、うちの会社の業績は知っているか」

「いえ────」

 本当は薄っすら知っていた。ネットで見る情報程度だが、ここ最近は他のライバル企業に押され気味で業績が落ち込んでいる。時代の流れもあるのだろうが、それについていけていない。ワンパターンな経営ではいずれ悪化するだろうと文也は思っていた。

「ここ数年で徐々にだが、下がっている。一番の要因は藤宮グループが参入してきたことだろう。本堂商事と合併してからうちの業績は下がる一方だ」

 藤宮グループ。津川商事と業績争いをしている大企業だ。

 総合的には藤宮グループの方が上だが、この分野においては長く事業を営んでいる津川商事がなんとか踏ん張っている状況だった。

 藤宮の代表は最近交代し、若い社長が引っ張っていると聞いた。それも関係しているのだろう。

「時に文也。お前の会社は藤宮と取引があるそうだな」

「……はい。最近ですが、子会社のシステム関係をうちに任せてもらっている状況です」

「そうか。それを見込んでお前に頼みがあるのだが」

 ────やっぱりそうかい。

 文也は心の中で舌打ちをした。雅彦からの呼び出した。何もないわけがないと思っていたが、絶対に何か面倒な頼みごとをされる。

「では、藤宮の情報を手に入れるのは簡単なことだな?」

「……! それは、産業スパイじゃ────」

「私は何も無理に手に入れて来いと言っているのではない。お前は家から出た身で自由が効く。ただ、状況を見てきてほしいと言っているのだ」

 ────だから、それを産業スパイって言うねん。

 心の中で毒を吐く。だが、雅彦には通じないだろう。雅彦は初めからそのつもりだったのかもしれない。だから家を出たときにも何も言わなかったのだ。何かあった時に使える駒にしようと思っていたのだろう。

「……具体的には、何を?」

「そこはお前が考えろ。言っておくが、津川だとバレるような派手な動きはするな。あくまで内密にだ。藤宮との取引は今まで通り行え」
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