とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 美帆はその日、文也を食事に誘った。

 なんとなく不安を抱えたままでいたくなかった。早くこの疑問に対する答えを見つけたかったのかもしれない。

  文也とは店で直接待ち合わせをした。仕事があって遅れるらしく、美帆はしばらく一人で時間を潰した。

 文也が現れたのは八時を回った頃だった。かなり急いできたのか、店に着いた時文也は若干息切れしていた。

「ごめんなさい。忙しいのに誘ったりして……」

「別にええよ。結構待ったやろ。ごめんな」

 美帆は二杯目のドリンクを頼んだ。文也もドリンクを注文した。

「美帆の方から誘ってくれるなんて珍しいやん」

「ちょっと……会いたくなって」

 いつもなら恥ずかしい台詞も今日はすらすら言えた。半分は本当だが、半分は嘘だ。会いたかったのは本当だが、それだけではない。

 文也は照れたような笑顔を浮かべた。その表情を見ると、滝川のことを思い出した。

 ────二人が似てるのは親戚だから? それともやっぱり……。

「そういえば、秘書課の方はどうなん? 忙しいやろ」

「そこそこですね。青葉さんも完全にお休みしてるわけじゃないので一応なんとかなってます」

「そうか……。受付に行っても美帆がおらへんからなんか物足りないねんな」

「大丈夫ですよ。一年ぐらいしたら戻れると思いますから」

 美帆は話をしながらタイミングを伺った。正直に聞くつもりはない。こんなところで気まずい空気になりたくなかったし、疑っていると思われるのも嫌だ。

 文也が二杯目のドリンクを注文したタイミングで、あらかじめ考えていた話を振った。

「文也さん。ちょっと手を出してください」

「手?」

 文也は言われた通り素直に手を出した。美帆はハンドバッグから筆箱を取り出し、その中から赤いペンを取り出した。

「なんか書くん?」

「手を置いてください。ちょっと書くので」

「落書き?」

「おまじないです」

 文也は遊んでいると思っているのか、あまり真剣に捉えていないようだ。美帆は文也の小指の分かりやすい位置に星のマークを書いた。

「なんのおまじない?」

「文也さんのお願い叶うおまじないです」

「ふーん。なんか陰陽師みたいやな」

「油性ペンで描いたのでお風呂で落とさないでくださいね」

「って、油性ペンかい」

「だって、落ちたらお願い叶わないじゃないですか」

「そんなに俺のお願い叶えたかったん?」

 何も知らずに優しい笑みを浮かべられると、心が痛い。疑っていることがいけないことのような気がした。

 だが、何もなければこのまま終わるはずだ。確かめて、《《そうでなければいい》》だけの話だ。
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