とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 翌日、美帆は沙織にあることを頼んだ。

 滝川を見かけた時に《《あることを》》してほしい、と。沙織は快く承諾してくれた。

 どうしても確認したいことがあった。それを確かめなければ、胸のざわつきが抑えきれないような気がした。

 数日後、思っていたよりも早くその連絡は来た。

 仕事をしていると、スマホが震えた。連絡の差出人が沙織であることに恐怖のようなものを感じながらメッセージを開いた。

 ゆっくりと内容に目を通していく。

『前に言ってたやつだけど、あったよ。滝川さんの手に赤い星印みたいな落書き。あれがどうかしたの?』

 それを見た瞬間、絶望にも似たものが胸に湧き上がる。

 やはりそうだという思いと、そんなの嘘だという悲しみが冷静さを撹乱させる。疑惑が確信に変わった瞬間だった。

「津川文也」と「滝川文太」は同一人物だ。

 信じられなかった。だが、納得もしていた。

 文也が滝川なら今までのことも納得がいく。仕事で遅れた滝川の代わりに文也が来たことも、滝川と話した会話の内容を文也が知っていたことも。

 なぜこんなことに今まで気が付かなかったのだろう。二人はあんなにも似ていたのに。

 だが、同時に別の疑問が湧き上がる。

 なぜ文也は滝川のフリをしていたのか。いや、滝川が文也のフリをしていたのだろうか。どちらが本当の人物なのか分からない。

 そしてなぜ二人は自分に近付いたのか。普通に考えたらおかしなことだ。別の人物になりすまして一人の人間に近付くなんて。

 美帆は二人に会った初めの頃のことを思い出した。

 先に会ったのはどちらだっただろうか。よく覚えていないが、印象が強かったのは文也の方だ。あの出会いも、よく考えればおかしなことだった。

 後々文也から自分の存在を知っていたことを明かされたが、その時文也は一体何を考えていたのだろう。あの時どんなことを思って自分に話しかけたのだろう。

 ひどい言葉を吐いたのは誤解していたからだと言っていた。他にも意味があったのだろうか。

 滝川として自分を食事に誘ったにはなぜなのだろう。どうして別々に人物になって自分を誘ったのか。

 そこにはただの「好意」で片付けられない何かがあるのではないだろうか。
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