とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 俊介は腕時計を確認し、外出の用意を始めた。

 それを見て、隣の席の本堂がパソコンから顔を上げた。

「ん? 今日なんか予定あったか」

「毎年この時期は藤宮本家のお得意さんに菓子折を送ることになっててな。そのお使いだ」

「お前まだ執事だったのかよ?」

「肩書きは秘書でも俺は元々藤宮家に仕えてるんだ。色々雑務があるんだよ。一時間ぐらいで戻ってくる予定だ」

 俊介は荷物を持って部屋から出た。

 藤宮家の用事とはいえ単なるお使いだ。難しいことではない。

 聖が藤宮グループの後を継いでから、俊介は聖のスケジュール管理以外にも仕事が増えた。聖が会社のことで忙しい分、俊介がその他の業務に気を回さなくてはならない。

 藤宮グループは明治から続く大企業だ。それゆえ付き合いも多く、このようなお使いは日常茶飯事だった。

 都内の百貨店に向かった俊介は、藤宮家御用達の和菓子屋へ足を運んだ。

 毎年注文している店だからほとんど手間はかからない。いつもいる店員に声をかけ、去年と同じようにしてくれと頼めば、あとは店が勝手にやってくれる。

「青葉様、いつもありがとうございます」

「いえ、こちらこそ助かります。加賀屋さんの和菓子はなかなか買えないといつも喜んでいただけるんですよ」

「いえいえ、それはもう、古くからお付き合いのある藤宮様からのご注文ですから。特に澄子(すみこ)様にはよくご贔屓頂いて……また是非、聖様にもご挨拶させて頂きたいものです」

 老舗和菓子屋の加賀屋は藤宮家と何十年も付き合いのある店だ。それこそ、この店が創業当時から贔屓にしていて、先代当主の妻────聖の母親である澄子はとりわけこの店をよく利用していた。

「青葉様、こちら新作の焼き菓子です。もしよろしければ、お持ち帰りいただいて聖様とご賞味下さい」

 最初から用意していたのか、店員は紙袋をスッと差し出した。

 だが、俊介は困った。聖は甘いものが嫌いだからだ。コーヒーもブラックで飲む聖は当然和菓子など食べない。彼女はこんな高級な和菓子よりもコンビニで売っている百円ほどで買える煎餅が好きなのだ。

 それに本堂も甘いものを食べているところは見たことがない。

 俊介は断ろうと思ったが、店員が是非にと勧めてくるので仕方なく紙袋を受け取った。こんな菓子などもらったところでどうしようもない。他の部署にでも配るしかないだろう。

 ようやく用事を終わらせて菓子の売り場から出ようとした時だった。

 人が並んでいる催事コーナーに知った顔が見えて、足を止めた。

 思わず人違いかと思った。あれは、コンビニの店員────立花ではないだろうか。彼女は客ではなく、制服を着てショーケースの後ろに立って接客していた。

 人違いではない。本人だ。彼女がつけている名札は、やはり「立花」と書かれている。

 俊介はふらりと店に近付いた。

「いらっしゃいませ」

 コンビニで聞く声と同じだ。彼女は俊介を見て微かに笑顔を浮かべ挨拶をした。

「……あの、藤宮コーポレーションのコンビニで働いてる立花さんですよね?」

 尋ねた途端、女性は顔をしかめた。

 俊介はストレートに聞いたことを後悔した。彼女は自分のことなど覚えていないかもしれない。いきなり赤の他人がそんなことを聞いてきたら不審に思うのも当然だ。

「突然すみません。そこで働いているもので」

 説明すると、立花は納得したのか先ほどよりも表情を緩めた。取り繕うように俊介は捕捉した。

「会社の用事で寄ったらたまたまあなたが見えたので、もしかしたらと思って。お仕事中に失礼しました」

「いえ、大丈夫ですよ」

「こちらでも仕事されているんですか?」

「はい。掛け持ちで仕事しているんです」

 ということは、彼女はコンビニでもバイトなのだろう。二つもバイトを掛け持ちしているなんてなかなか大変だ。

 咄嗟に思いついた俊介は先ほど貰った加賀屋の紙袋を差し出した。

「あの、これよかったら食べて下さい」

「え?」

「頂き物なんですが、事情があって食べれないので。嫌いじゃなければ是非」

「えっと……」

 彼女は戸惑っているようだが、隣にいたもう一人の店員は紙袋を見てあっと驚いた。

「これ、加賀屋のお菓子ですか!? 並んでもなかなか買えないって言われてる────! 貰ったほうがいいですよ!」

 隣にいる店員は興奮気味に立花に告げた。

 これが普通の反応なのだろう。加賀屋は著名人御用達の店として何度もテレビで紹介されているような有名店だ。生産数が少ないため並んで買うか、並んでも買えないものがほとんどだ。そんな菓子をやると言われれば興奮するのも当たり前だ。

 彼女は戸惑いながらも頭を下げて紙袋を受け取った。

「すみません。高いものを……ありがとうございます」

「お仕事、頑張ってください」

 後ろに人が並び始めていたので俊介は話を切り上げて店を出た。

 突然できっと驚いたことだろう。だが、あのまま菓子を持ち帰っても困るだけだ。それなら頑張っている人間にやったほうがあの菓子も報われる。多少押し付けがましかったところは反省しなければならないが────。

 時計を確認して、人がごった返す百貨店から抜けた。雑談が多かったせいで予定よりも二十分ほど遅れていた。
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