とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 ────もう一度考えてみて。

 聖に言われた言葉が蘇る。だが、決心には至らなかった。

 あんなひどい言い方をした人間が、どの面下げて会いにいくというのだろう。

 会いたい気持ちはある。なんだったら最後に会った瞬間からずっと会いたかった。青葉のことを思い出してばかりで仕事に全く集中できない。コンビニを辞めることも考えたぐらいだ。

 それでも辞められなかったのは、青葉とのつながりが完全に絶たれることを恐れたからだ。コンビニの仕事を辞めたら、もう青葉とは会えなくなってしまう。もう会う理由もなくなる。

 自分から切っておきながら未練がましい女だ。



 勤務を終えた綾芽はタイムカードを押して店を出た。

 今日はこれからまた仕事だ。大して気を使う仕事ではないが、考えなくてもいい仕事は余計なことを考える余裕も作ってしまう。ぼんやりして失敗しないといいのだが。

 エントランスを出たところで、綾芽は真横から突然人が出てきて驚いた。思わず後ろに引いたが、それが青葉だったのでさらに驚いた。

 久しぶりに見る青葉はなんだか元気がないように見えた。綾芽はふと、彼が手に持った紙袋に視線をやった。

「お疲れ様。これから仕事?」

 綾芽は慌てて視線をあげた。

「……そうです」

「話がしたいんだ。時間は取らせないから、来てくれないか」

 ────断れば、もう完全に関係が終わるはずだ。青葉に失望されることもないかもしれない。

「わかりました」

 だが、綾芽は断らなかった。青葉は真剣な表情を崩すことなく歩き始めた。

 そのまま歩いて、久しぶりに青葉と公園に入った。青葉は以前、二人でよく座っていたベンチに座った。座って、と言われて綾芽も続いて腰掛けた。

「仕事は何時から?」

「……あと、一時間ぐらい余裕はあります」

 それは夕食を摂る時間も含めてだから実際はもっと少ない。だが、今は青葉と一緒にいたかった。

 やや薄暗くなった公園は街灯があるおかげで周りの景色も分かるが、昼間に比べて人がほとんど歩いていないので少し不気味だ。青葉がいなかったら来なかっただろう。

「立花さんに謝ろうと思って来たんだ」

「……そんな必要はありません」

「俺がしつこくしたのが悪かった。今も、本当は迷惑に思ってるなら帰ってくれていい。俺は君を引き止める資格がない」

 俊介は、いつも自信がなさそう────。聖の言葉を思い出した。

 本当に不思議だ。青葉はとても完璧な男性なのに、確かに自信がなさそうに見える。仕事をしている時はあんなにキリッとしていて格好良かったのに、どうしてそんなに自信がなさそうなのだろう。いつも、いつも。

「私も……ここに来る資格はありません。あんな言い方をしたんです。謝るのは、私の方です」

「理由を聞いてもいいか」

 青葉は顔を覗き込むように綾芽をじっと見つめた。

 その瞳に見つめられると逆らえなくなってしまいそうだ。怒られているわけではないのに、そうしたくなってしまう。

「青葉さんが、社長秘書だって聞いたんです」

 その瞬間、青葉の顔は青ざめた。青葉は今まで確かに気を遣っていた。だから社長秘書であることを隠していた。やはりそうなのだろう。

「……どこでそれを聞いたんだ」

「この間、イベントに行った時に……青葉さん達の会話を偶然聞いたんです」

「……そうか」

 青葉は浅い溜息をついて手で顔を覆った。

「立ち聞きしてすみませんでした」

「いや……俺も、黙っていて悪かった。騙そうと思ったんじゃないんだ。ただ、立花さんに気を遣わせるのが嫌で、それで……」

「私も……ずっと嘘をついていたんです」

「……立花さんも?」

 本当に青葉は受け入れてくれるだろうか。他人事だと思ってくれるならそれは有難いことでもあるが、深い関係にはなれないことを意味する。

 青葉は真面目だ。だらしない話は嫌いかもしれない。伝えてしまえば、今度は自分が責められるかもしれないのだ。それこそ青葉のステータス目当てで近付いたと思われかねない。

「話してくれ」

「私のこと、軽蔑するかもしれません」

「しないから、聞かせてくれ」

 青葉がすぐに切り返したことに幾ばくか安心した。綾芽は考える前に言い切った。

「奨学金を返しているというのは嘘です。本当は、亡くなった父の借金を返しているんです」

「……いくらだ?」

「五百万……です」

「なんで言わなかったんだ!」

 青葉は見たことがないぐらいの剣幕で怒鳴った。綾芽は驚いて呆然とした。青葉が怒ったところは初めて見た。食事の途中で帰った時ですら怒らなかったのに、まさかこんなところで怒るとは思わなかった。

「俺は君に無理をさせてまで食事したかったわけじゃない! 君の負担を減らしたかったから────いや、ごめん。勝手にキレて……元はと言えば俺が────」

 怒っていた顔が悲しそうに歪む。

「気を遣わせるのが嫌だったんです……」

「それがしんどくなって、俺と距離を置いたのか」

「違います……」

 綾芽はまた言えなくて、言葉に詰まった。

 本当のことなどどうして言えるだろう。青葉のことが好きだから、怖くなったのだ。拒絶されるのも、邪険に扱われるのも嫌だった。こんな自分では対等な関係になどなれない。あの父親のように見下されるのが嫌だった。

「俺のことが嫌いになったとか、迷惑とか……そういう理由か」

「ち、違います」

「じゃあ、あの時言ったのは嘘なんだな?」

 綾芽はゆっくりと頷いた。

「……青葉さんみたいな人が、私みたいな人間といてもプラスにならないじゃないですか」

「それは、今まで一緒にいた時間を全否定する言葉だな。俺は楽しかったから一緒にいたんだ。プラスとかマイナスとか考えてたわけじゃない。そんな損得ばっかり考えながら生きてないよ」

「けど……」

「じゃあ、立花さんは俺といてそういうこと考えてたのか?」

 綾芽は慌てて首を振った。そんなわけがない。そう思われることが怖くて離れたのだ。青葉と一緒にいて楽しかったのに、それを否定されることが怖かった。

 目に滲んだ涙がゆっくりと頬を伝った。

 青葉は手を軽く上げて、少しの間動きを止めると、思い出したようにポケットからハンカチを取り出した。それで綾芽の涙を軽く拭くと、頼りなく笑った。

「俺は君といて楽しいと思った。歳もかなり上だし、俺みたいな融通の利かない人間といて面白くないと思うけど、俺はあの時間が好きだったんだ。君も、そうだったから俺と一緒にいてくれたんだろ」

「ごめんなさい……」

「君のために大したことはしてやれないかもしれない。俺が出来ることは限られてる。でも、俺は俺に出来ることで一緒に楽しいことを見つけられると思ってる。木曜のあの時間が、俺にとってはそうだった」

「……重いなんて、嘘です。私は……」

 言おうとすると嗚咽が漏れて言葉にならない。好き、その一言は言えないが、青葉に対してそれ以上の思いを感じていた。

 涙で滲む視界の中、青葉はベンチの横に置いていた紙袋を取り出した。その中から中身を取り出し、綾芽に手渡した。

「ごめん、アヤメはないって言われて……だから、代わりに別の花をと思って……」

 青葉が差し出した花束には、淡い色目の紫色の花がたくさん詰まっていた。確かに、この中にアヤメはない。

 だが、その花束は以前、青葉に見せるために買ったあのワンピースと色がよく似ていた。アヤメが紫色だから、その代わりになのかもしれない。

 綾芽は花束を受け取った。鼻を近づけると微かにいい香りがする。花を見ていると心が穏やかになった。先ほどまではあんなに悲しかったのに、今はこんなに幸せだ。

「────でも、私の家、花瓶がないんです」

 そう答えると、青葉の表情はしまった、と言わんばかりに落ち込んだ。その表情を見て、綾芽はなんだかおかしくなった。

 青葉はいつも完璧なのに自分といる時は少し違うかもしれない。一生懸命なのに、どこか抜けている。でも、それも愛しかった。

「花瓶、買いに行きます。部屋に飾って、出来るだけ長く咲いていられるように頑張ってお世話します」

「じゃあ、その花瓶は俺が買ってもいいか?」

「そ、それは自分で買います。別に無理なんてしていません」

「じゃあ、その花瓶に合うような花をまた買ってくるよ。なんせ、全然分からなくてそれもかなり迷ったんだ。俺も勉強しないとな」

「一緒に────」

「え?」

 綾芽は慌てて顔を花に埋めた。

 一瞬、何を言おうとしていただろう。調子に乗ってついポンポン言っているが、青葉は引いていないだろうか。あまり調子に乗りすぎると、また妙なことになりかねない。

「……今度、一緒に花を選んでくれないか。あと、立花さんが好きそうな店を見つけたから、今度また夕飯食べに行こう」

 いつまでたっても素直になれない自分の代わりに青葉が先に誘ってくれた。

 今は青葉の親切に感謝するしかない。自分から行動するにはまだ勇気が足らなさすぎる。

 それでも少しだけ自信が持てた。

 自分を信じる、自信だ。それがもう少しあれば青葉にも思いを伝えられるだろうか。

 柔らかい花びらに触れながら、小さくはい、と答えた。
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